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​2022年4月のメッセージ

2022.4.3「キリストを知ることの素晴らしさのゆえに」

ヨハネ12章1~8節

 この香油が三百デナリオンもする高価なものだとあります。一デナリオンが一日の平均的労働賃金でしたから、三百デナリオンと言えば、労働者のおおよそ一年分の給与と考えても良いでしょう。その高価な香油をマリアは惜しげもなく イエスさまに注いだのです。見方によれば、一年分の給与を一瞬にしてぱあーっと使い果たしてしまった。問題は本当にそう言うことなのでしょうか。そうであるならば、弟子たちの言ったことももっともなことだと言えるでしょう。つまりこうです。それだけ高価なものならもっと賢明な使い方があるはずなのに。 マリアは感情に流され過ぎているとか、物は正しく管理しなければならない。そんな非難に満ちた声が聞こえてきそうです。ユダが言ったような「この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」事実イエスさまは貧しい者への配慮に満ちた方でした。いつも貧しい人々に心を向け、社会的に弱い立場の人たちを大切にしておられました。イエスさまはただ同情するだけでなく、いつも具体的な手を差し伸べておられました。そんな日頃のイエスさまの姿勢に照らしても、マリアの香油注ぎは人々の目に納得しがたい愚かな浪費と映ったのでしょう。しかしイエスさまはマリアの行為をよしと認められました。もっともらしい弟子の抗議を退けられたのです。そればかりでなく、マリアのしたことをイエスさまは、「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マルコ14:9)と語っておられます。一見無駄な浪費と思われた香油注ぎが「わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだ」(ヨハネ12:7)と言われました。つまりそれは神のみこころを行うためであると言うことです。マリアのように心からイエスさまを愛してやまないクリスチャンの献身や献金、奉仕の中には、この世の基準からすると勿体ないと思われることがあるかも知れません。否、クリスチャンの間でも、愚かなことに、そのように勿体ないとか、しなくても良いという人がいますね。打算のない愛は、全てのものをささげても惜しむことがありません。愛に裏打ちされた献身の業には行き過ぎはありません。  三ヶ嶋徹 牧師

2022.4.10「あなたの王が来る」ルカ19章28~40節

 イエス様は、もうすぐエルサレムに入城されるところまで来られました。そして数日後には十字架の死を遂げられます。何を成し遂げるためでしょうか。それは、アダムにつながっている私たちをイエス様につなげるためなのです。誰につながっているのかを神は見ておられるのです。「ロマ5:12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」とあります。このみ言葉は、わたしたちは、アダムと一つであること、アダムがわたしたちの代表であることを示しています。アダムの罪は人類の罪、神様はそう見ておられるということです。しかし、神は逆の理屈を備えてくださいました。イエス様です。「Ⅱコリ5:14後半 一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。」洗礼を受けた者は、神の目には、イエス様と一つとみなされ、イエス様のなさったことは、洗礼を受けた者がしたことになる、と神はみてくださるのです。「ロマ5:19 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」とある通りです。神様は、義しい方で罪を見過ごすことはありません。罪ある者は神の怒り、罪の裁きを受けます。しかし、罪のないイエス様が、全人類にかわって裁きを受けてくださいました。だから神の目には、全人類が、自分たちの以前おかしたすべての罪のさばきを受けたかのようにみなされた、ということです。そのことは、今日の箇所で「子ろば」にあらわされています。「子ろばのつないであるのが見える(38)」状態でした。昔、イスラエルには馬はおらず、ロバで戦っていたようです。そのロバがつながれている。

つまり、戦いは終わったということです。神はイエス様のゆえに戦いをやめてくださいました。私たちはイエス様につながって、神の前に立てる平和を得るのです。神の家族となることができるようになる平和を与えられたのです。それを、イエス様は十字架の上で成し遂げてくださいました。イエス様の平和に与ることができる。それが、イエス様がエルサレムに入城される私たちの本当の喜びなのです。    瀬戸幸治 補教師

2022.4.17「主は復活させられた」ルカ24章1~12節

 小説家、椎名麟三は「人は、二つのことを同時に『ほんとう』として生きることは出来ない」と言う。したがって、「死ぬ」ことを『ほんとう』とするか、「死んで終わらない」ことを『ほんとう』とするかである。何を『ほんとう』とするかで、生きる世界が変わってくる。そして、キリストの復活は、私たちの『ほんとう』としていた世界を根底から変えてしまった出来事である。   墓に行った女性たちは、「終わりの日の復活」を『ほんとう』としていたのであり、イエスの言葉「人の子は・・・殺され、三日目に復活する(9:22)」を 『ほんとう』としていなかったのである。しかし、その限界を打ち破ったのが、輝く衣を着た二人の人であった。彼らは、女性たちの目を修正する。それは、イエスの「お話になったことを思い出」すことによってであった。

なぜなら、それは変わることのない神の約束の言葉であり、必ず実現するからである。そして女性たちは「イエスの言葉を思い出し」目の前の出来事を信じるに至った。    

 復活は「週の初めの日(日曜日)」の出来事だった。初めの日、それは神が「光あれ」といわれた日。世界を創造された第一の日である。そしてイースターは、全く新しい世界を主イエスが創造された第一日目である。私たちも、週の初めの日、日曜日の朝、礼拝の中で、主イエスの言葉が思い出されている。復活によって、罪、サタン、そして死が打ち破られた。この決定的な出来事を、私たちは週の初めの日ごとに祝い続けている。それが礼拝である。

 主イエスの復活によって、私たちが最も恐れる死、最も不都合な死がなくなった。「死んだら終わり」から「死んでも終わりじゃない」が『ほんとうの』の世界になった。ということは、私たちの存在自体が逆転する。主イエスの復活と同じく、私たちもその復活に与ると聖書は約束する。ならば、「老い」は人生の終焉に向けたものであったのが、逆転されて、新しい命の始まりに向けたものとなる。今日、主イエスの復活を『ほんとう』のこととしよう。主イエスの言葉を思い出して。              瀬戸幸治 補教師

2022.4.「命の息吹」ヨハネ20章19~31節

 今日の出来事は、イエス様が復活された日の夕方の出来事です。弟子たちは、ユダヤ人を恐れて部屋に鍵をかけて閉じこもっていました。弟子たちがいた部屋がどんな部屋なのかはわかりませんが、そこは恐れが充満した恐れの世界です。しかし、その真ん中にイエス様が立たれました。そして「あなたがたに平和があるように」(おそらくシャローム)と言われました。恐れの真ん中に平安をもたらす方、それが復活のイエス様です。 それから、イエス様は、閉じこもって動き出せなかった弟子たちに、息を吹きかけられました。聖書で「息」というと、真っ先に思いだすのが、創世記ではないでしょうか。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(2:7)」とあります。イエス様が吹きかけられた息は、イエス様が霊的に弱っている人を、あるいは霊的に死んでいた人を、再び生きる者としてくださる息なのです。そしてイエス様は、聖霊を与えて信仰を整えてくださり、弟子たちを本来の使命・役割を担う者へと立ち上げてくださいます。復活のイエス様が、恐れの中にいる者の所に来て、その者の真ん中に立ち、平安を与え、命と聖霊を与え、再び立ち上がらせてくださる。今日の出来事を私たちも自分のことにできるのです。  20章31節には、ヨハネがこの福音書を書いた目的が記されています。それは、私たちがイエスは神の子メシアであることを信じるためであり、信じてイエス様の名により命を受けるためです。この福音書を書いたヨハネは、「イエスが神の子である」ということを頭で理解してほしいから書いたのではありません。また、クリスチャンとしての行動基準や、マニュアル的なことを伝えるためではありませんでした。この福音書を通して、「イエス・キリストを信じて、イエス・キリスの力で生きてほしい。イエス・キリストと直接交わりを持ってほしい。そうすれば、命があふれ、生きる力と喜びと望みが生まれてくる。」その思いから書かれたのです。わたしたちは、救われる前も、救われた後も、ご復活のイエス様の力によって生きるのです。       瀬戸幸治 補教師

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