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​2021年11月のメッセージ

2021.11.7「イエス、ラザロを生き返らせる」 ヨハネ11章38~44節 

 今日の御言葉には、イエスさまが愛されたラザロの死が載っています。愛する者の死は、私たちに大きな悲しみをもたらします。『マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。』(ヨハネ11:21)。これはマルタの悲しみ、またイエスさまに対する抗議とも受け取れます。イエスはぐずぐずしている、神はいざと言う時に働いてくださらない。つまり、「どうして神さまは、何もしてくれない」と言う問いなのです。このような問いが私たちの内にもないでしょうか。「神さまは、どうしてこの私の悩みのところに来て、助けてくださらないのですか」、「どうして私の病気は治らないのでしょうか」等々。けれども、マルタの信仰はそこにとどまるものではありませんでした。彼女の言葉には、その後があります。「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」(11:22)。これをもって見ると、イエスさまが兄弟ラザロの命を保つことをなさなかったとしても、マルタはイエスさまを心からなる信頼をもって仰ぎ、イエスさまから離れることはありませんでした。つまりそれは、マルタの希望と慰めは、イエスさまに繋がっていたということです。彼女はイエスさまを仰ぎ見、イエスさまが神の豊かさの中から、その自由な祈り願いによって、豊かに受け取ることが出来ることを知っていたと言えるのではないでしょうか。

 さてここで大切な言葉として、マルタの言った「今でも」と言う一言です。どんな状況でも私たちが「ただ今でも信じています」と言える時、私たちは信仰の勝利の道を走っていると言えるでしょう。しかし、それとは対照的に、「たら、れば」の思いです。それは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。』私たちも良く言う言葉です。「もし、わたしに力があったら、もし、わたしにもっとお金があったら」なんだって言えるんですね。「ならば」や「たら」の信仰、こういう条件付き信仰には力がありません。信仰は一切の条件を越えるのではないですか。マルコの9章で、悪しき霊に取りつかれた息子の父親に対して、イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」(マルコ9:23)。とイエスさまは力強く語れました。また、私たち信仰者が、イエス・キリストを信じて集まるところには、『二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)。どのような状況であろうと、苦難のなかであろうと、苦しみ悩みの家中であろうと、主が共に居て下さる、このことを忘れてはなりません。牧師 三ヶ嶋 徹

2021.11.14「子どものように」 マルコ10章13~16節 

 子どものころのことを覚えていますか。子どものころは、よく遊び、よく食べ、よく寝て、とても単純な世界でした。でも、毎日が楽しかったことを思い返します。また、子どものころは、見たり、聴いたりしたことをそのまま信じることができました。ところが、大人になってみると、物事を常識で捉るようになり、また自分の価値観というフィルターを通してしか、物事を見ることができなくなって、結果的に、生きづらくなっているように思います。 今日の聖書箇所で、イエスさまは、こうおっしゃっています。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 

 子どものように神の国を受け入れる、とはどういうことでしょうか。イエス様の時代は、女性や子供は社会的な身分が低く、大人の男性が中心の社会でした。また、神の国に入るためには、律法を熱心に守ることが彼らにとって大事なことでした。でも、こどもは、律法(=神の意志)を理解できないし、それを行えないため、大人よりも劣る存在でした。ところが、イエス様はここで、「子どもこそ、天国に入る」と言われたのでした。大人が一生懸命おこなっていたことや、当時の常識をご和算にされたのでした。これを聞いた弟子たちは驚いたことでしょう。 

 イエス様は「子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福され」ました。それは、イエス様が子供たちを「そのまま」受け入れたことを示しています。そして、子どもたちも、イエス様に受け入れられているという事実を、そのまま単純(シンプル)に受け入れています。「子供のように神の国を受け入れる」とは、自分が「受け入れられているという事実」を「そのまま受け入れる」ということなのです。今日、イエス様は、神の国が何かを示してくださっています。神の国とは、まさに主に抱かれて、祝福されることです。   

 大人になると、思い煩いが増えます。その様な私たちに、今日のイエス様の言葉は、神と私のシンプルな関係の中に、そして、み言葉をそのまま信じ受け入れるところに、本当に豊かで自由な世界があることを気づかせてくださるのではないでしょうか。                 補教師 瀬戸幸治

2021.11.「真の枠組みに生きる」ヨハネ18章33~37節 

 神学生の時、奉仕先の教会で初めて教会に来るようになった少年がいました。彼にとって教会は友達と遊ぶ場所であり、聖書の話はあまり聞いていませんでした。

 ある時、私は「神様がこの世界を造られました。そして、〇君、その神様が〇君を造ったんだよ」と言いました。すると、〇君はすごく困った顔をして「違うで、お母さんやで」と言いました。それは彼の世界観が、「神は自分とは関係のない存在」という枠組みだったのが、「神は自分と関係している存在」という枠組みに移り変わった瞬間だったことでしょう。今日、イエス様は自分と関係ないと考えていたポンテオ・ピラトを真理の光で照らされます。

 ピラトは、イエス様と会話をしますが、会話がかみ合いません。ピラトが生きていた枠組みは、ローマの法律であり、その法律を遵守する自分の正しさだったからです。

先に触れた〇君は、「神と私の関係」に生きていませんでした。そこで私は世界を造った「その」神様が〇君を造ったと言いました。そして彼は反応しました。イエス様も、自分とは関係がないと思っているピラトに「わたしは真理について証しするためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と招かれています。しかし、ピラトは自分の正しさという枠組みからでることがなかったので、イエス様の招きに反応できませんでした。イエス様の言われた「真理」は正確には「その真理」であり、ピラトがつぶやいたのは一般的な「真理」だったのです。

 イエス様の言われた「その真理」とは、実に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネ3:16)」に他なりません。それが、私たちが生きるべき枠組みなのです。ピラトは、自分の邸宅に、自分の王が来ておられること、自分を生かす真理が目の前にあることに気づくことはできませんでした。

 今週は、 教会暦の最後の週です。この年の最後のイエス様の言葉が、「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」です。この一年に感謝しつつ、新しい教会暦も、イエス様に属する者として、イエス様の声を聞き続けたいと願います。補教師 瀬戸幸治                 

 

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