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​2023年3月のメッセージ

2023.3.5「キリストにある新たな人生」ヨハネ3章1~17節

 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」。この言葉から彼は高齢であったことが分かります。年齢、それは私たちに嘆息をもたらします。今、自分がこの年になって、加齢も含めて、何か歳というものは私たちに迫ってくる宿命のようなもののように感じます。それこそ覚悟して諦めても、何か心が暗くなってくるのも仕方のないことかも知れません。けれど福音においては、新しい誕生が起こるのです。向こう側つまり、神から来るものは決して、死ではなく、新しい誕生であるということなのです。ニコデモの言葉には、過去を、つまり後ろを振り返りながら言っていることが分かります。しかし主は違います。前方を向かせてくださいます。それはまさに新しい誕生なのです。

 「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」ここで主の言われる「水と霊によって生まれる」とは、洗礼を意味しています。けれど、霊的な誕生がどのようにして起こるのかは誰にも説明できないことです。ちょうど「風」がどこから吹いて来てどこへ行くのか分からないのと同じで、それは人間の理解を超えています。そんな風でも音なら聞くことが出来るし、そよぐ木々を見れば今風が吹いているのだということが分かる。つまり、風そのものは目に見えなくても、その効力や影響力ははっきり把握できるのです。霊によって生まれる者もこれと同じであるとイエスさまは言われます。              

        三ヶ嶋 徹牧師

2023.3.12「キリストがくださる水」ヨハネ4章5~42節

 飲み水を購入する方はおられますか。ミネラルウォーターを購入する方は、どこの水かにこだわりがあるのではないでしょうか。キリストは「生きた水」を飲みなさいと言われます。それはどこの水なのでしょうか。また、その水は、私たちにどんな効果をもたらすのでしょうか。

 キリストは、あるサマリアの女性と出会いました。キリストは喉が渇いていました。そして女性は魂が渇いていたのです。しかし、彼女はそのことに気付いていませんでした。すべての人の魂は神を求めるように作られています。堕落によって神との関係が断絶した人間は、魂の渇きを持っているのです。しかし、多くの人がそのことに気付かず、潜在的な渇きをこの世のもので癒そうとしています。サマリアの女性は、キリストに5回も結婚と離婚を繰り返したことを言い当てられます。それは他人ごとではありません。神以外のことに癒しを求める人間のありのままの姿なのです。私たちの中にも、同じ思いがあるのではないでしょうか。酒、ギャンブル、買い物、友達とのランチ、占いなど、次々とこの世のことに潤いを求め、また依存してはいないでしょうか。そこに潤いを求めるのは「ヤコブの井戸」に水を汲みに来ることと同じです。何度そこから汲みあげてもその水は渇くのです。だからこそキリストは言われます。「行って、あなたの夫をここに連れてきなさい(16)」、「ここ」とはヤコブの井戸、つまり汲んでも渇く水ではありません。「ここ」とはキリストご自身のことなのです。キリストを信じること、信じて洗礼を受けることが、「生きた水」を飲むことなのです。唯一、「生きた水」だけが神との関係の断絶による魂の渇きを癒すことができるのです。 キリストを救い主と信じると、「その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る(14)」のです。     瀬戸幸治補教師

2023.3.19「神の業が現れるため」ヨハネ9章1~41節

 世の中は不条理な出来事で満ちているのではないでしょうか。「どうして私がこのような目に会うのか」と問わずにはいられないことが起こります。そのような体験をするのは、私の何がいけなかったからなのでしょうか。または、私に対する神の罰なのでしょうか。しかし、キリストははっきりと言われました。「神の業が現れるため」と。

 弟子たちは生まれつき目の見えない人に対して、因果関係で物事をとらえようとしています。これは日本人の感覚に近いのではないでしょうか。因果応報、原因があって結果がある、それが私たちの不条理の受け止め方なのかもしれません。しかし、キリストは違いました。神様がこの人のために何らかの行いをするため、つまり、神がこの方のために働くためなのだ、と言われるのです。「神の業が現れる」とは、不条理の中で苦しんでいる人の人生が変えられていくことなのです。全く新しくされるためなのです。  今日、イエス様は、生まれつき目の見えない不条理の中に生きる者を見つめられたのです。その人のために何をしてあげようかと見られたのです。今も、キリストのまなざしは、不条理の中にいる者に注がれています。不条理を通してキリストご自身が働いてくださるのです。キリストが働いてくださった結果、目の見えなかった人は、近所の人が見間違えるほどに変わったのです(9:8、9)。

 不条理は誰にとっても好ましいものではありません。できれば避けたいと願います。しかし、神は不条理を通して、私たちをご自分の世界に生きる者としてくださるのです。    

                  牧師 瀬戸幸治

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