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​2022年12月のメッセージ

2022.12.4「荒野で叫ぶ者の声に聞け」マタイ3章1~12節

 今、洗礼者ヨハネはその荒野で叫んだのです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」悔い改めとは、別な言葉で言い換えれば、「神に立ち帰ること」です。生ける神を見物しないこと、神の傍観者、観客にならないことです。私たち自身自らが、神の用意してくださった舞台に上り、神のみ旨である台本、つまりご計画に演じること、生かしていただくことなのです。つまり、顔や心だけでなく、全身全霊を、全生涯をとおして神に帰ってゆくこと、あの放蕩息子のように、無一物の姿、哀れなままの格好でも、ひたすら神に向かって帰っていって、「私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」(ルカ15:21)と言うとき、神さまはこの悔いた砕かれた魂を受け入れてくださるのです。悔い改めとは、もう大丈夫だと思いこまないことです。自分が貧しく、乏しく、何もない、神さまの御心に沿うものを何も持っていない、救いに必要なものは全くないこと知ることです。このように、悔い改めは私たちを空にします。筒いっぱいであれば、神からの恵みを受け取ることは出来ませんが、しかし、私たちが空になったとき、上からの救いで満たされるのです。ファリサイ人やサドカイ人の行いは、いつも自分と言う者の上に立っていました。先祖にアブラハムがいると誇って、石ころからでもアブラハムを起こすことの出来る神さまを信じませんでした。信仰の実は、心の木から生じます。ただ行えばよいのではありません。ファリサイ人は行いをいっぱい持っていました。けれども、たくさん行いながら、実りの乏しい行為だったのです。  行いは、心に悔い改めがあって、価値があるのです。そうでないと、私たちの行動は、きわめて人間的な打算的な行動となってあらわれてきます。神さまの御旨のままに、神さまの栄光が現されるように。このことが大切です。         牧師 三ヶ嶋 徹

2022.12.11「キリストのわざ」マタイ11章2~11節

 クリスチャンにも苦しいことはやってきます。そんな時に、私たちは神様がわからなくなるのではないでしょうか。洗礼者ヨハネも獄中でその様な体験をした一人でしょう。教会の中で、「神様がわからない」と言うことは勇気がいることかもしれません。しかし、有名な預言者(モーセ、エリヤ、エレミヤなど)も、随分、泣き言を言っています。全ての人に弱さはあるのです。大切なことは、その弱さをどうやって解決するかなのです。ヨハネは「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の方をまたなければなりませんか。」と、自分の弱さをイエス・キリストの所に持って行ったのです。私たちも、神様が分からない時、イエス様のところに弱さを持って行けばいいのです。

 するとキリストは、ご自分のわざを示されました。盲人に視力を与え、足の不自由な人を歩けるようにし、皮膚病を治し、耳の聞こえない人を聞こえるようにし、死者をよみがえらせたことです。つまり、これらのしるしは神ご本人が来ている証拠なのです。ヨハネはキリストのわざを見ることで、自分には理解できない、わからないことの裏で神が確実にご自身の御計画を進めておられることを確信したことでしょう。私たちも、キリストのわざを見る必要があります。見るべきキリストのわざは、やはり十字架です。イエス様はこう言われます。「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さい者でも、彼よりは偉大である。(11:11)」と。偉大なヨハネでも見ていないキリストのわざがあるのです。それは十字架の上で自らを犠牲にし、三日目に勝利してよみがえられた、キリストのわざです。しかし、私たちは、洗礼によってキリストの復活にすでに与っています。だから私たちの信仰の基盤はヨハネよりも盤石なのです。弱る時は、キリストのわざを思い起こしましょう。 

       補教師 瀬戸幸治

2022.12.18「初めに言があった」ヨハネ1章1~14節

 イエス・キリストとはどの様なお方なのでしょうか。受肉前のイエス様は、旧約聖書の一ページ「初めに、神は天地を創造された。」とあります。もうこの時から、キリストは存在しておられる方です。そして、一人ぼっちではなくて「言は神と共にあった」のです。父なる神とは別の存在だけれども、父なる神と子なる神は一つでした。そして言そのものが神でした。またヘブライ1:2には「御子によって世界を創造されました。」とあるように、父なる神は、父なる神の言である御子によって、存在するすべての物を創造されました。イエス様は父なる神と共に、天地創造のわざにかかわっておられたのです。そしてヘブライ1:3には「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現われである」と書かれています。神様は見えません。でもイエス様を見る時に、わたしたちは神様を見るのです。

 つまり、わたしたちは、イエス様を抜きに神を知ることができないのです。イエス様が神の真理を私たちに明らかにします。神を見たいなら、イエス様を見ることです。神様に近づきたいなら、イエス様に近づくことです。神様の御心に従って生きたいなら、イエス様と共に生きるのです。神の言であるイエス様には力があります。命を与える力です。「言の内に命(ゾーエー)があった」とヨハネは言います。この命は、心臓が動いている生命以上の命です。神の言(キリスト)を通して神様を知り、信じる者は、神との間に満ち溢れ、永遠に続く新しいいのちを持つのです。神の言を信じる者は本当のいのち、神のいのちを持つのです。神の言(キリスト)を信じる者は神ご自身との交わりを持つことができるからです。またヨハネは「命は人間を照らす光であった」と言います。キリストの内に命があり、命は光だとヨハネは言うのです。例えば、南の窓のそばに観葉植物が置かれていると、朝になれば太陽の光を浴びることができます。定期的に光をあびると、植物は元気に育ちます。逆に、真っ暗な部屋に置くと枯れてしまうでしょう。私たちとキリストの関係も同じです。キリストの光は私たちに命を与えてくれるのです。

 この光は「輝いている」のです。たとえどんなにこの時代がキリストを理解できなくても、どんなにキリストを葬り去ろうとしても、キリストはその闇の中で輝き続けているのです。この光は、私たちの恐れを追い払います。神の救いの愛を明らかにします。私たちを永遠の命に導いてくれます。この光は、罪の結果の滅びへと続く暗闇を払いのけ、御国への道を照らしてくれるのです。その光は救い主イエス・キリストの中にあるのです。  補教師 瀬戸幸治

2022.12.25「神は我々とともにおられる」マタイ1章18~25節

 神が共にいるということは、何とありがたいことでしょうか。しかし、神が共にいてくださっていても、問題が起こらないわけではありません。悩みがなくなるわけではありません。ヨセフもその一人だったでしょう。一緒に生活をする前にマリアが妊娠してしまったのです。大きな問題を前にして、ヨセフに解決を与えたのは、神の言葉でした。マリアは間違ったことをしておらず、歴史の中で、神がご自分の民を罪から救うために、マリアは聖霊によって赤ちゃんを宿したのでした。ヨセフがすべきことは、何も恐れることなく、マリアを迎え入れることでした。それが正しいことだと、ヨセフはみ言葉によって理解できたのです。神のみ言葉が問題を突破する答えでした。

 ヨセフは、み言葉によって、神の大きなご計画の中での、自分の役割を自覚できたのだと思います。神の言葉が、使命と役割を与え、また行動する信仰を与え、私たちを神の働きに参与する者へと立ち上げていきます。

 クリスマスを現実的な出来事として想像すると、ヨセフとマリアがとても惨めな状況に身を置いていたことがわかります。彼らが150キロもの旅をし、たどり着いたベツレヘムには居場所はありませんでした。彼らは、しかたなく馬小屋に留まり、生まれた大切な子どもを、動物が首を突っ込んで物を食べる、汚い飼い葉おけに寝かせるしかなかったのです。どんなにか惨めだったと思います。しかし、そこでこそ若い夫婦は「インマヌエル(神は我々と共におられる)」の約束を体験したことでしょう。なぜなら、どん底の、その惨めな状況の中にこそ、救い主が来てくださったからです。そんなところに救い主がいるはずがないと思わずにはおれないところに、神が来てくださったのです。

 「神が共におられる」ことがわかるのは、幸せで、順風満帆の時ではなく、心も体もギリギリの状態の時なのかもしれません。私たちもどん底を経験します。みじめな思いになります。苦しいこと、神は私なんてどうでもいいのかと思わずにはおれないこともあります。しかし、そこにこそ、主イエス・キリストは来てくださるのです。あなたと共に歩むために、神が人となられました。あなたを監視するためではなく、あなたを立ち上げ、用い、あなたが信仰を持って神に応答し、豊かに実っていくために、「神が我々とともにおられる」のです。

新しい一年も、この約束に生かされたいと願います。      補教師 瀬戸幸治

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