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​2022年9月のメッセージ

2022.9.4「自分の十字架を背負って歩む者」ルカ14章25~33節

 「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」主は言われました。これまでにも語られて来たことですが、十字架は十二弟子に限らずだれであっても「自分を捨て、日々」負うものです。そして「同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」何故に一切なのでしょうか。それは、主なるキリストが、神さまが私たちの全てだからです。私たちの家族が全てではないのです。仕事が全部ではないのです。自分の命さえ全てではないのです。私たちは愚かな金持ちの例えで学びました。彼は、全てにおいて自分の作物、自分の蔵、最後には自分の魂さえも自分でどうにか出来ると思っていたのです。しかしどうなのでしょうか。全ては神さまから与えられた物であって、何一つ自分の手で生み出した物は一つもないのです。一切は神からの賜物です。つまり、私たちに死が訪れる時、一切を明け渡さなくてはならないのです。私たちの人生において、大きな建物を建て上げるような時もあるでしょう。また、敵とも言える者たちと戦わなければならないこともあるでしょう。その時、しっかりと腰を捨て計算するのです。この世の財や富、地位が全てではないのです。軽率な行動や決断を慎み、思慮深くあることが肝要です。そして主のみ心を問いつつ、一歩また一歩進んで行くのです。 牧師 三ヶ嶋 徹

2022.9.11「神の喜び」ルカ15章1~15節

 みなさんは、道に迷うことはあるでしょうか。方向音痴の人は、「自分のいる位置を見失いがちな性質のある人」だそうです。性質は生まれ持ったものなので、自分の努力によって方向音痴そのものを治すことはできません。実は、私たちは、神様の御心を歩むことにおいて、方向音痴だと言えるのかもしれません。アダムが罪によって堕落してから、わたしたちはその性質を受け継ぎ、神様の御心から迷い出てしまうからです。

 今日の見失った羊と、無くした銀貨は、そのような私たちなのです。しかし、キリストはそのような私たちに「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある(15節)」と言われます。「悔い改め」は、神に背を向けていた生き方を方向転換して神の意思に沿うように生きようとすることです。神は、罪の痛みを覚え、キリストのゆえに罪を赦されている信仰に立ち返る者を、喜んでくださるのです。キリストは、そのように悔い改める者を「見つけるまで捜す」と言われます(4節、8節)。  

 なぜ、キリストは悔い改める者をそこまで捜してくださるのでしょうか。それは、私たちが「主のもの」だからです。羊飼いが見失った羊を見つけるまで探すのは、その羊が羊飼いのものだからです。無くした銀貨を女性が見つけるまで探すのは、その銀貨が自分のものだからです。自分のものだから、なくしたくないのです。 

 同様に、悔い改める者を神様が必ず見つけてくださるのは、私が神様のものだからに他なりません。洗礼を受けた時に、私たちは主のものとなりました。洗礼は、一度きりですが過去の事ではありません。罪に苦しむ時、それでも洗礼を受けて罪を赦されていることに信頼を置き直しましょう。そのように、日毎に洗礼に生きていく者を、神様は喜び、何度でも迎え入れてくださいます。 

            補教師 瀬戸幸治

2022.9.18「先達の姿に学ぶ」ルカ2章22~35節

 年齢を重ねていくと、これまで出来ていたことが次第に出来なくなっていきます。結果として、くらしがシンプルになっていくのではないでしょうか。できないことが増えていくのは悲しいことですが、見方を変えると、くらしがシンプルになるということは、本当に大切な物事や人との関係が、その人の中で大きくなっていくこと、と表現できると思います。 若い時は、例えるなら、両手にたくさんのことを抱えている状態かもしれません。様々なことが大切に思えて、たくさんのことを背負ったり、抱えたりして生きているのだと思います。しかし、シメオンの姿をみると、「老い」とはその様な状態からの解放かもしれないと考えさせられます。  シメオンは、「主が遣わすメシアに会うまでは決してしなない」というお告げを聖霊から受けていました。シメオンはイエスを腕に抱き、「主よ、今こそあなたはお言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです」と言って、神をほめたたえた人でした。

 28節に「シメオンは幼子を腕に抱き」と書かれていますが、直訳は「シメオンは幼子イエスを曲げた両腕で受け取った」となります。シメオンは、聖霊に導かれて神殿にやってきました。そこで神様から、プレゼントをいただきました。待ち望んでいた救い主、イエス・キリストです。神様から差し出された救い主を、彼は、何も持っていない両腕で、大事に受け取ったのです。

 もし両手がふさがっていたら、神様が差し出してくださったキリストを受け取ることはできないでしょう。信仰者の歩みは、自分が大事だと思って、固く握りしめているものから解放され、神の前にシンプルな者へと整えられ、一番大切な神の命を豊かに受け取っていく歩みだと言えるのではないでしょうか。私たちも、シメオンのように、聖霊に導かれて礼拝に与っています。そして、神様から差し出されているキリストを両手で受け取っていくことができるのです。 

       補教師 瀬戸幸治

2022.9.25「言葉の力」ルカ16章19~31節

 イエス様はお金持ちが陰府で苦しみ、貧しいラザロがアブラハムの近くで平安に与っているたとえ話をされました。お金があると神の国に入れないのでしょうか。金持ちはどうすればよかったのでしょうか。答えは、貧しい者の名前にあります。「ラザロ」とは、「神が助ける」という意味です。ラザロは貧しさのゆえに、神に助けを求めることしかできなかったのです。神に助けを求める者を神は御国に迎え入れてくださるのです。お金持ちは、神に助けを求める必要がありませんでした。だから陰府で苦しむことになったのです。

 私たちはラザロでしょうか。それともお金持ちでしょうか。日常生活に困らない人は、たとえ話のお金持ちに近いのかもしれません。では、どうすれば神に助けを求めるようになるのでしょうか。それは神の言葉に聞くことです。このお金持ちは自分が救われないとわかると、自分の兄弟を救おうとします。ラザロを遣わしてほしいと願います。死者がよみがえれば悔い改めると考えたのです。しかし、イエス様は言われます。「たとえ、死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」。

 実際に、イエス様が十字架の死を通して復活し、弟子たちの前に姿を現された時、だれもイエス様がよみがえったことを信じませんでした。その弟子たちに、復活のイエス様がされたのは、御言葉を思い出させることでしたイエス様は言われました。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』(ルカ24:46以下)と聖書の言葉、神様の約束、この福音に、弟子たちを立ち返らせておられます。 このたとえ話で、イエス様は「モーセと預言者に聞きなさい」、ここを強調されているのです。つまり聖書の言葉を聞いて悔い改めなさい、と教えられました。 神の言葉には2種類あります。律法と福音です。律法に照らされて罪を自覚し、福音であるイエス様に立ち返る、これが悔い改めであり、神の国に入る、神様のやり方なのです。 補教師 瀬戸幸治

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