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​2022年7月のメッセージ

2022.7.3「主の弟子が歩む道」ルカ10章1~12,16~20節

 イエスさまの弟子が歩む道は、イエスさまによって派遣される者の道と言えるでしょう。9章にある十二使徒の派遣に続いて、今度は七十二人の弟子たちが派遣されます。旧約聖書との関連を見ると、十二使徒はイスラエル十二部族の代表としての意味を持ちますが、今回の七十二人という数は、イスラエルの七十人の長老たちによって、イスラエルの民全体が代表されていたことに結びつきます。

 イエスさまは、彼らを二人ずつ先に遣わし、これからご自分が行くつもりの町々や村々にそのことを知らせようとされました。十字架の時は近づいているのです。残された時間は限られています。弟子たちが前触れをした後にイエスさまが来て宣教すれば、町や村は二重の宣教を受けることになるし、イエスさまたちの滞在期間も短縮されることになります。それは今日も同じです。イエスさまは私たちキリスト者を先に人々のところに遣わしてご自分を知らせておられます。先日のゲラサの男も、彼の証を通してゲラサ地方にキリストの福音が宣教されたのです。この働きは収穫が保証されていると言えますが、労苦が多く、その働き手も少ない。また危険が絶えず伴ってくるのです。小羊を狼の中に送り出すような危険性がある。これには迫害という外面的な危険もあると言うことです。「七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」このお言葉には、収穫が多い時に、収穫の主に感謝することを忘れて自らを誇りやすいが故に、そのことに気をつけるようにと語られています。そして何よりも私たち弟子でありキリスト者の喜びは、「天に名が記されていること」です。         牧師 三ヶ嶋 徹

2022.7.10「キリストの憐れみによって」ルカ10章25~37節

 律法の専門家が「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」(25節)とイエス様に問いました。これは「どんな行いを成し遂げたら、神様に認めてもらえ、永遠の神との交わりに入ることができるのか。」と聞いているのと同じことでしょう。 そして、隣人の定義をはっきりしてくれたら、それを自分は成し遂げることができるかのようにいう律法の専門家(29節)にイエス様はたとえを話されました。 たとえ話には、おいはぎに襲われた「ある人」、祭司、レビ人、旅をしていたサマリア人の4人が登場します。「ある人」はただ倒れているだけで何も行動できません。祭司とレビ人は、「ある人」を見て、道の向こう側を通って行きました。しかし、サマリア人は憐れに思い、傷を手当てし、自分のロバに乗せ、宿屋へ連れていき介抱しました。また銀貨を置いて、不足があれば戻って来て支払うことも約束しました。 神に認められる行動をしたのはサマリア人です。しかし、普通の人は、サマリア人と同じ基準で生きることはできません。サマリア人と同じ基準で生きた人は、唯一イエス・キリストだけなのです。

 では、永遠の命を受け継ぐにはどうすればよいのでしょうか。答えは、おいはぎに襲われた「ある人」にあります。彼は何もできませんでした。だから、サマリア人の憐れみを受けるしかありませんでした。「ある人」は罪に殺されていく私たち、善きサマリア人はイエス・キリストです。

 イエス様が、罪の為に死にそうになり、道端に横たわっている私に近づいてくださり、憐れんでくださいました。そして、ご自分の正しい歩みという油と、ご自分の血のぶどう酒を注ぎ、私を死から救ってくださいました。そして、私を教会と言う宿屋に導き、宿屋の主人(牧師)にお世話を指示し、ご自身の御言葉と、洗礼、聖餐を残してくださいました。イエス様は、これらの恵みによって、絶えずわたしたちの傷をふさぎ、わたしたちを完全な者としてくださっています。今も、イエス様が、私たちをケアしてくださっているのです。律法の専門家の「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるのでしょうか。」、この質問への答えは、「何もできない」なのです。ただキリストの憐れみによって、キリストのケアを受ける者が、永遠の命を受け継ぐものなのです。     

補教師 瀬戸 幸治

2022.7.17「本当に必要なこと」ルカ10章38~42節

 この話は、マリアが正しく、マルタは間違っていたのでしょうか。マルタは、イエス様をお迎えし、おもてなしをしようとしています。正しい信仰者の姿です。問題は、マリアはイエス様のそばにいましたが、マルタは、イエス様から離れていたことにあります。イエス様がマルタに気づいてほしかったのは、まず、自分(イエス)から、もてなしを受けることが、何よりも大切だということなのです。 この話には特徴的な一つの言葉があります。それは「もてなし(ディアコニア)」です。「奉仕」と訳されますが、「務め」「職務」という意味があります。聖書では、「ディアコニア」は「仕える」や「もてなす」と言う言葉に訳されています。マルタがイエス様をもてなしたように、私たちには、それぞれになすべき務め、仕えていく役割があります。その務めを果たすためには、まず、イエス様からのもてなしを受け、力を頂く必要があるのです。植物は土だけでは育ちません。太陽の光、水が必要です。つまり、天からの恵みによって、植物は育ち、花を咲かせ実がなるのです。私たちも同じように、天(神)の恵みをいただいて、実を実らせていくのです。まず、イエス様のもてなしを受けないと、マルタのように務めを果たすことができないのです。 なお、マリアはこの話では何もしていません。イエス様のそばで話に聞き入っているだけです。しかし、イエス様が十字架につけられる前に、ベタニヤで一人の女性が高価な香油をイエス様の頭に注ぎました。イエス様は、そのもてなしを受けて言われました。「はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」。その名もなき女性こそ、このマリアなのです。イエス様の前に静まり、イエス様からもてなしを受けた者は、時が来れば、自らがもてなす者、仕える者、自分にしかできない務めを果たす者になっていくことが、マリアの姿からわかります。そして、マルタとマリアの話は、礼拝に通じます。イエス様は礼拝の場に御臨在くださり、イエス様が御言葉の食事を整え、まず、私たちに仕えてくださっているのです。私たちも、まず、イエス様から力をいただくのです。それから、それぞれに与えられている神から与えられた務めに向き合っていくのです。イエス様を離れては、私たちは何もできないことを覚えましょう。    補教師 瀬戸 幸治

2022.7.24「祈りに応えてくださる方」ルカ11章1~13節

 弟子の一人が祈りを教えてほしいと願います。弟子たちは祈りを知っていました。つまり「イエス様のように祈ることを教えてほしい」と願ったのです。そこで、イエス様は、まず、どのように祈ればいいのかを教えてくださいました。それが「父よ、御名があがめられますように」から始まる主の祈りです。  その後で、イエス様はその祈りを聞かれる父なる神がどのようなお方であるのかを、たとえ話でお話くださいました。弟子たちの誰かが、真夜中に友人の家に行くという話です。自分の家に旅先から友人が来たけれど、何ももてなすものがないから、パンを3つ貸してほしい、と言います。来られた方は、真夜中なので、面倒はごめんだと、その家の友人はいいます。実は、パンを借りに行った人の態度は、すごくえらそうなのです。元の言葉では、「パンを三つ貸せ!」と命令(形の動詞が使われている)しています。

 中東の旅は過酷なので、旅人に食べ物をあげないと、命を失う可能性もありました。だから、真夜中だろうと、なんとかしてあげないといけません。そこで「パン貸せ!」と切実な態度になるし、来られた方も、貸さないと言う選択肢はないのです。だから、イエス様は、「友達だからということでは起きて何か与えるようなことはしなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」と言われました。また、「しつように」という言葉は、元は「恥知らず」あるいは「厚かましさ」をあらわす言葉です。つまり、イエス様は、父なる神は、望んでいる物を大胆に、厚かましく頼むことを求めておられる方だと言われているのです。私たちの祈りを聞かれる方は、聞かないと言う選択肢は持っておられない方です。   

 しかし、その応答は、いつも「わかった」ではありません。「まだだめ」あるいは「だめ」の時もあります。しかし、父なる神は最良の答えを用意してくださっています。人間の親でさえ、魚を欲しがる子供に蛇を与えません。卵を欲しがるのに、さそりを与えはしません。父なる神はなおさらなのです。私たちは洗礼を受けて、父なる神の子として、大胆に祈ることができる特権に与っています。大胆に、そして厚かましく、父なる神の御心を求めて祈りましょう。父なる神は応えてくださいます。             補教師 瀬戸 幸治

2022.7.31「愚かな金持ち」ルカ12章13~21節

 イエス様は「貪欲に注意をはらいなさい、用心しなさい」と言われました。貪欲の世界が、ある金持ちの姿にあらわされています。ある金持ちの畑が、大変豊作でした。元の聖書にはこのように記されています。『彼は、彼自身の中で、ずっと考え続けて言いました。「どうしよう?私の作物を集める所を私は持っていない。」「こうしよう、私の倉を壊して、もっと大きい倉を建てよう。そして、そこに私のすべての麦と良い物(財産)を集めよう。」』と言っています。さらに、19節で「こう自分に言ってやるのだ」となっているところは、「私の魂に言おう」です。「魂」とは肉体的生命」つまり「いつか終わる命」です。この金持ちは、 「いつか終わる私の命よ、これから先何年も生きていくだけのたくわえをあなたは持っているぞ。休め、食べろ、飲め、楽しめ」と言っています。  

 彼はすべての物を自分の力から出た物と考えています。その結果、彼の世界は、たった一人の世界です(登場人物は彼だけ)。そして、いつか尽きる穀物と財産が彼の神となっているのです。彼は自分の魂に「一休み」するように言いますが、自分で自分の魂を休ませることなど、できるでしょうか。 これが、貪欲の行きつく世界だと、イエス様はいわれているのではないでしょうか。イエス様は、ある金持ちのたとえ話を、当時の政治家や、貴族たち、リッチな人たちに、話されたのではありません。一般の群衆に向かって語られたのです。つまり、イエス様は、私たちに「主を忘れていないか」「他のものを神としていないか」「尽きてしまう物に囲まれて、命が安泰だと思っていないか」「孤独になっていないか」「自分の中にいる『ある金持ち』に気づきなさい」と問いかけられているのです。   

 貪欲は、神様や隣人のことを一切考えないで、自分の為にすべてのものを蓄えようとする姿でした。それが、ある金持ちの愚かさでした。そのような者は、神の前に豊かではない、とイエス様は言われています。     

 では、神の前に豊かであるには、どうすればいいのでしょうか。それは、神様が与えてくださった「豊作」をどうするかです。残念ながら、ある金持ちは、倉を立て替えてまで、自分の為だけに取り込んでしまいました。その逆をすれば良いのです。神様が自分にくださった豊作で倉に入りきらない分は、隣人と分かち合えばいいのです。いわば「恵みのおすそわけ」です。 神様からの恵みを豊かに受け取り、神に感謝して、あふれた物を「おすそわけ」する。そのように神の恵みを喜び、他者と共有できる者を神様は、「神の前で豊かな者」と見て、喜んでくださいます。

    補教師  瀬戸幸治

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