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​2021年7月の”ギフト”

 

「神様のウエイター」

補教師 瀬戸 幸治

 

 このような信仰を得るために、神は福音と聖礼典を与える説教の職務を設定された。神は、これらのものをなかだちとして聖霊を与えられる。聖霊は、神が欲する時と所において、福音を聞く人々の中に信仰を起こされる。福音は、われわれがそれを信じるとき、自分の功績によってではなく、キリストの功績によって、恵み深い神をもつことを教えるのである。

〔アウグスブルク信仰告白 第五条 説教の職務について〕

 

 まだ私がサラリーマンだった2016年。

 退職届を上司に渡しても、受け取ってもらえないと考えた私は、直接、専務をつかまえてこう言った。

 「教職を目指したいので退職します。」

 「学校の先生になりたいのか?」と専務。

 「いえ、牧師です。」と私。

 「ボ、ク、シ・・・」聞き慣れない音の響きに、専務は言葉を失った。目をぱちぱちさせて私の顔を見ている。

 「そりゃ、そうなりますよね。」と私は心の中でつぶやいた。

 

 「牧師ってなに?」、この問いは、実は教会の中においても案外あやふやで、人によって受け止め方が

違っているのかもしれない。

 近畿教会の内部において、牧師は「正教師」と呼ばれる。私はまだ「正教師」ではないので、「補教師」である。そして、「正教師(牧師)」も「補教師」も、時に「先生」と呼ばれる。一般的に、教師とは「学校などで、学業・技芸を教える人」であり、先生とは「学問や技術・芸能を教える人」「自分が教えを受けている人」「教師・師匠・医師・代議士など学識のある人や指導的立場にある」と受け止められているようだ。

 

 しかし、どうやら教会の牧師は、一般的な教師や先生とは違う存在であるようだ。

 では一体、牧師とは何者なのだろうか。私たちルーテル教会は「ルーテル教会信条集(一致信条書)」という、聖書が何を言っているのかを告白した信条集を持っている。その中で、アウグスブルク信仰告白は、聖書に基づいて、牧師のことを次のように定義している。

 「信仰を得るために、神は福音と聖礼典を与える説教の職務を設定された」

 つまり、牧師は福音を語り、聖礼典を執行する「役割」なのである。あくまで「役割」だから、牧師と信徒は上下の関係ではない。

 

 神様は、私たちに「いのちのパン」を与え、お腹を一杯にしようとしてくださっている。だから、牧師はそれを運ぶ「神様のウエイター」なのだ。これが私の自己認識である。神様が定められたこの職務(役割)を忠実に務める者でありたい。

 皆様、これからお世話になります。どうぞよろしくお願いします。

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