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​2020年12月の”ギフト”

私たちがお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手から私たちを救うことが出来ますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、ご承知ください。私たちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも決していたしません。

                         ダニエル3:17・18

 

祈りの応え

 

 私は、高校2年生のクリスマスに洗礼を受けました。進むべき道を祈り、聖和女子短期大学に導かれました。ミッションスクールですので、毎日礼拝がありました。入学当初は、毎日喜んで礼拝に出席しましたが、しばらくすると礼拝が楽しみにならず、足が遠のいて行きました。キリスト者でない先生が礼拝を担当することもあり、メッセージがよもやま話で終わることが多々あったからです。そのことでシスターに相談すると「あなたは、愚痴ばかり言いますが、その礼拝のために祈っていますか?」と尋ねられました。「その礼拝で讃美歌を歌いますか? 御言葉が読まれますか? もしそうであれば、そこに主はおられます。人の話で左右されることはありません。あなたの祈りの結果なのですから。」と言われたのです。讃美と御言葉があれば、そこに主が居られる。私は正しく御言葉が語られるように祈ればいい。結果は、主が私に備えて下さったこととして受け止める。そのことを教えられました。

 わたしは、教会にあって、毎週の礼拝が、祝福されるように、礼拝奉仕者がよき奉仕が出来るように、説教者が、正しく御言葉の説きあかしが出来るように祈ることが、信徒の務めであると思っています。あわせて、役員の方々のために祈ります。

 総会において、相応しい方がたてられるように祈り、選挙に臨みます。結果は、主の御心です。礼拝において、就任式が行われ、主の信任を受け、聖霊の助けをいただきます。私たちには、祈って支えるよう勧めが成されます。役員の方々の信仰とご奉仕に主の導きと支えがあり、御心を行うことが出来るように日々祈ります。役員の方々は、精一杯のご奉仕をされています。祈りつつ。人である限り、間違った判断をすることがあるかも知れません。しかし、それは、私たちの祈りの結果なのです。どのような判断であろうと、主に祈る限り、後には、全てを益に変えていただけるのです。何という恵みでしょうか。

 冒頭の御言葉は、3人の少年たちが、王様の脅しに応えた場面です。何があっても主に信頼する信仰があります。口語訳聖書では、「たとえそうでなくても」という訳になっています。「たとえ」という言葉は、言語にはないそうですが、名訳ではないでしょうか。「たとえそうでなくても」私は、主の御心に従うと言う信仰。聖書には、この信仰の土台の上に立つ人々の姿がたくさん語られています。主が私たちに求められることは、主に信頼することです。思い通りにならなくても、祈りの結果を受け入れ、歩みを進めることです。

教会の一致は、意見の一致ではなく、教会の頭である主に全てをお任せする信仰の一致ではないでしょうか。新しい年、新しい働き手を迎え、新たな歩みが始まります。教会の混乱を招く悪しき霊に打ち勝つために、共に祈りあって、主に仕える群れとなりましょう。

                           三ヶ嶋 一美

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