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​2020年7月のメッセージ

2020.7.5「神の御心に適うこと」 マタイ11:16~19,25~30

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」この招きの言葉は、このような唯一の啓示者としての権威のもとに語られています。イエス様以外のところへ行っても福音の真理は啓示されませんから、そこでは真の救いも、休みもありません。人生における全ての悩みや苦しみは、イエス様の福音を信じることによって初めて真に解決され、休みが与えられるのです。

 「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」「軛」とは、牛や馬が荷車を引いたり、畑を耕したり、石臼をひいたりする時に首にかける道具であり、そこに全ての労役の力がかかるようになっていました。もちろん、ここでは比喩的な意味に用いられています。当時のユダヤ人にとっては、律法やそれに付随する伝承をファリサイ派の人のように守ることは重荷であり、軛であったでしょう。

これと対照的に、イエス様が私たちに負わせる軛は軽いと言います。なぜなら、イエス様自身が私たちを助けるために共にその軛を負ってくださるからです。律法学者たちは高慢で、人々に荷を負わせておいて、自分はそれに指一本触れようとしませんでした。しかし、主は柔和で謙遜な方であるから、私たちの重荷を先に立って共に負ってくださるのです。ここに進んで自分を低くされる謙虚なイエス様の姿が見られます。 

 「わたしに学びなさい」と言う言葉には、知的に何かを学ぶと言うよりは、イエス様に見習うという意味です。本来「学ぶ」は「まねる」と言う言葉から派生した言葉であると言われています。つまり、「学ぶ」は「まねぶ」であり、イエス様のその生き方にキリスト者は「まねる」のです。主が語られたように、語り。主が成されたように、人々に対して仕え、奉仕していくのです。      牧師 三ヶ嶋 徹

 

 

2020.7.12「実り豊かな人生」 マタイ13:1~9,18~23 

 イエス様の語る豊かな実りとは「私の幸せ」という狭い意味ではなく、神の国としての豊かな実りのことです。そのために私たちはいつも御言葉の種をいただきます。しかしその種が実らない場合がある。一つ目は、鳥が食べてしまう。つまり御言葉の種をサタンが奪い去るケースです。聞いたことをつい忘れてしまうことは誰でもありますが、聖霊は私たちに御言葉を思い起こさせてくださいます。しかしサタンによる場合は信じていたことさえ忘れてしまう。二つ目は、石だらけの地に落ちた種。御言葉を喜んで受け入れるが、根がないので、すぐにつまずいてしまうケース。私の心に御言葉が根を張る。そのためには石を取り除く必要があります。頑なな思いなど、石が土の中にたくさんある。三つ目は、茨の間に落ちた種。すでに根を張っている世の思い煩いや誘惑が御言葉を覆いふさいでしまうケース。私達の思い煩いは様々で、御言葉を邪魔する雑草が心に生い茂ってくる。しかし四つ目の良い地に落ちた種は、豊かな実りが約束されている。御言葉を悟ることは聖霊の働きです。私たちは聖霊の導きに応えて次のことができます。①サタンを遠ざけること。サタンの嫌いなものはイエス様です。心に讃美が溢れる時、サタンは逃げ去ります。②心の石を取り除くこと。これは重労働です。御言葉がグッと心に刺さる時こそ、イエス様による掘り起こす作業です。③心の除草作業。世の思い煩い、心奪われている雑草を根こそぎ抜くのは骨の折れる作業です。しかし根こそぎ抜けるとスッキリするのです。自らの心の良い土づくりが大切です。御言葉には命があり、力があります。その実りは他者を活かし、他者と共に喜びを分かち合う、実り豊かな人生が約束されています。    牧師 栗﨑 学

 

2020.7.19「福音の種を撒くべき世界」 マタイ13:24~30,36~43  

 「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。」後の解説によると(36~43節)、良い種を蒔くのは、人の子イエス様で、畑は世界です。しかし僕たち、つまり私たちは、「良い種を畑にあなたご自身が蒔かれたではありませんか。何ゆえにこの世はどうしてこんなに多くの悪がはびこるのでしょうか」こう言って嘆き、悲しむのです。それどころか、良い実を結ぶはずの信仰者の集まり、教会の交わりの中に、毒麦や雑草が、どうして生えるのかと不思議に思うのです。しかし、神様が蒔いたところには、何と驚くことか、必ず悪魔も蒔いてくるというのです。そして私たちがより神様に近づこうとすると、より悪しき者たちは引き離そうと力を振るうのです。しかしこのことを忘れてはいけません。聖なるものは、いつも汚れたものとの戦いの中で育てられていくということなのです。イエス様の昇天の時、弟子たちは雲の中に上げられて行く主をいつまでも仰ぎ見ていたのです。しかし、天は福音を必要としていません。彼ら弟子たちはこの世、この世界に、つまり石地の心を持った人々に、茨の心で日々悩み嘆く人々に、福音の種を携え、出て行かなければならないのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1:8)。さて、ここで僕たちは問います。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』そして『では、行って抜き集めておきましょうか』です。第一の問いは、この世に悪の存在する理由を聞いています。主人の答えは『敵の仕業だ』でした。この世界には、世界を良くお造りになった、神様に敵対する意志があるというのです。しかしこの畑が神の畑であることを覚えておきましょう。たとえどのような敵が現れたとしても、たとえ悪魔が存在していても、毒麦が蔓延っていたとしても、この世界は依然として「神の畑」であり、決して「悪魔の畑」になることはないと言うことなのです。       牧師 三ヶ嶋 徹

 

2020.7.26「あなたの宝と天の国」 マタイ13:44~52 

 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。」聖書においては、真理は常に隠された形で存在すると言っても過言ではありません。云わば、神さまの愛はナザレのイエスとその十字架に隠されているのです。しかし、人々はこのイエスに躓き、十字架を笑うのです。けれど、信仰をもって、隠された宝を探す者は見出すことが出来るのです。「見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」この人が土地の所有者に、宝が隠してあることを告げないで、これを買い求めるのは利己的ではないかと思う人がいるかもしれません。しかし、これは譬えであって、比喩ではありません。比喩であれば、事柄の細部にわたって、一つ一つが意味を持っています。しかし、この譬えは、それが語ろうとする大きな真理を指さし、ある意味途中の道筋を重視しないのです。ここでは、この宝の為に持ち物をみな売り払うこの人の信仰の熱情が語られているのです。

 次に、「商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」とあります。前の譬えでは、宝がふいに見いだされ、この譬えでは探しているうちに見出されています。いずれの場合にも、宝を見出したことに強烈な感動があります。つまり、彼らは一切を捨てでも、この宝を自分のものにするということです。大抵は、常に自分のものを少しでも減らさないようにとか、若干残しておいて、この宝を手に入れようと考えるのではないでしょうか。もし私たちがそう考えるならば、この最高の宝に対する飢餓感、欠乏感が乏しいと言えるでしょう。父なる神は、ひとり子イエス様を惜しみなく与えて下さったこと覚えましょう。  牧師 三ヶ嶋 徹

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