top of page

​2020年5月のメッセージ

2020.5.3「キリストの救いの門から入れ」ヨハネ10:1~11

 今日のヨハネでは、羊飼いは羊を外敵から守るために、羊が飛び越えられない高さに石垣などを積み上げて囲いを作り、夜になると羊をその囲いの中に入れました。その囲いの門のところには門番がいて羊の世話をしに入って来る羊飼いだけに門を開いたのです。門から入らずに囲いを乗り越えて忍び込んで来るのは盗人であり、強盗なのです。朝になると羊飼いは羊の名前を一匹ずつ呼びながら囲いの外へ連れ出す。そして群れの先頭に立って羊を牧草地へと導いて行くのです。羊たちは羊飼いの声をよく知っているので、見知らぬ人に声をかけられても、騙されてついて行くことはありません。

 つまりここで言われている羊は私たちのことであると言うことです。羊は弱い動物であると言われています。後で出て来る狼の餌食になり易いのです。またルカの一匹の迷う羊のたとえにあるように、羊は迷い易いのです。それでいて案外、強情なところがあると言われています。弱さは、また反対の強情としっかりと結びついているからです。まさにこの強情な羊の姿は、私たちの姿でもあるのです。このような弱さのために、羊たちは、羊飼いの導きが必要です。また羊たちは、集団で生活し、迷う場合を除いて、一人で出歩きません。後に、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。」(10:16)とあるところから、この囲いは教会を意味する場合もありそうです。私たちは、一人で出歩かないで、いつも一人の羊飼いに導かれて、主の教会に集わなくてはなりません。  

 では顧みて、私たちはキリスト教に入門をしたのでしょうか?数ある宗教の中から、選び取ったのが、たまたまキリスト教だったと言うことでしょうか?イエス様は言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)。私たち一人一人は神の選びの中にあることを忘れてはいけません。    牧師三ヶ嶋徹師

 

2020.5.10「真理と命の道なるキリスト」ヨハネ14:1~14

 「こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」と続けて言われました。ここでイエス様はその道を知っていると、言われているのに対して、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」と弟子のトマスは知らないと言います。私たちは主に対して、「知らない」「出来ない」「持っていない」とよく不服を言う者です。しかし主は「知っている」「出来る」「持っている」と言われます。全てのものは神が備えお与え下さるのです。それなのに無理だと言うことは、神への不信仰であり、謙遜の傲慢と言うしかないでしょう。アブラハムが約束の子イサクを主に捧げた時に、神は、焼き尽くす献げ物として雄羊をお与えくださいました。彼はその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えて下さる)と名付けたとあります。人々は今日でも主の山に備えあり(イエラエ)と呼んでいます。(創世記24章14節)

 さて、イエス様は言われます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」これまでに多くの宗教家や哲学者たちも、道について、真理について語ってきたことでしょう。しかし自らを指して「道であり、真理であり、命である」と言われたのはイエス様ただお一人です。また、歴史の中で人間は、宗教や哲学の名のもとに多くの道を示し切り開いてきたと言えます。けれどそれは天に通じる真の道ではありませんでした。真の道は人間にはつくり出すことの出来ないものです。与えられて、はじめてその上を歩かせていただく道のです。それはまさしく、人なってこの世に下り、父なる神を指示してくださったイエス・キリストなのです。

神を知りたければ、イエス様を仰ぎ見ればよいのです。神の言葉を聞きたければ、イエス様の言葉を聴けば良いはずです。神の愛を知りたければ、イエス様の愛を見ればよいのです。そこに私たちは、イエス様の業を、愛ある行いを見るのです。そうすれば、そこに働く神の力を見ることが出来ます。そこにはまた、イエス様を世にお遣わしになった神の臨在と力があかしされていることが分かるはずです。事実神は御子イエスの内に働いておられるからです。             牧師  三ヶ嶋 徹

 

2020.5.17「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」 ヨハネ14:15~21 

 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」人間は、愛する人の言いつけを喜んで行おうとするものです。言いつけを行うことによって相手に喜んでもらおうとするのです。それと同じでイエス様を愛していることは、イエス様の掟を守ることによって証ししなければなりません。さらにイエス様は、とりなしの祈りの約束に加えて、御霊をお送り下さることを約束されました。ここで三位一体の一位格である聖霊は「弁護者」と言われています。また、必要に応じて助言を与える親しい友人を表す言葉です。それはまた「慰め主、助け主」とも言われています。ギリシャ語では「パラクレートス」、傍にあって呼んでくれる者という意味です。仮に私たちが裁判をするなら、その弁護士は、私たちよりも法律に詳しく、私たちを不法から守ってくれ、また私たちの代弁をしてくれます。今、天に昇られるようとするイエス・キリストは、聖霊と言う弁護者を残して行かれます。それはまた「真理の霊」とも言われます。私たちだけでは何も出来ない者です。しかし、イエス様を信じ、祈り求める時、聖霊は、慰め、助け、さらに弁護し、そして真理を教えてくれるのです。「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」これはイエス様が弟子たちに聖霊を与えると約束された最初のものです。「弁護者」なる聖霊はイエス様を信じる者の傍らでその人を弁護し、助け、励まし、慰め、ある時には叱責するお方です。またこの「真理の霊」は、信仰者を真理へと導き、真理の内に歩ませ、真理を証しさせてくださるお方として語られています。      牧師  三ヶ嶋徹

 

2020.5.24「世界宣教のはじまりと備え」  ルカ24:44~53

 主は今、失望の中に落胆している彼らに、「モーセと全ての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」とあります。キリストが必ず苦しみを受け(十字架)、栄光に至ること(復活)です。彼らは後でそれが主であったと分かると、その時のことを回想して言っています。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。」とあります。また、み使いの言葉によって、イエスがご自分の十字架と死と復活を予告されていたことを女のお弟子たちは思い出すことが出来ました。同様にエマオ途上のこの二人の弟子も、イエスの苦難と栄光に関する旧約聖書の言葉を、今度はイエスさまから聞かされた。この日の朝と午後の二つの出来事が、ただ復活のしるしとしての、空になった墓と復活されたキリストに出会うということだけであったなら、それはある意味彼らの個人的な体験にしか過ぎなかったでしょう。しかしいずれの場合も、イエスについての神の側からの証言があり、イエス自らの証言があり、そしてその言葉が彼らに希望を与えるものとなったのです。

 たとえ、私たちが悲しみを持ち、望みを失ったとしても、この私に悲しみの人生に主がお立ち下さって、共に歩んで下さり、御言葉を持ってご自身を顕して下さいます。私たちは人からの百の言葉を持っての励ましよりも、復活の主からの御言葉を持って初めて、「わたしたちの心は燃える」のです。悲しみと失望の内に始まった二人の歩みは、この後エルサレムへと向けられます。そこで他の弟子たちと復活の主との出会いの喜びを分かち合います。またさらに、このルカによる福音書24章52節では、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」とあります。 

 第一に、神の宣教計画は、人を用いて進められるということです。つまり使徒たち、復活のキリストの証人通してです。なぜなら、証人は事実を証言します。この事実こそ説得力を持つものは他にないのです。では、事実とは何を指さしているのか。言うまでもなく、イエス・キリストに起こった出来事、すなわち十字架と復活の事実です。そして弟子たちは、この歴史的な出来事の目撃者なのです。だから彼らの第一の任務は、イエス・キリストに関する事実を証言することなのです。次に、自分自身の身の上に起こったこと出来事を証言することなのです。

 第二に、宣教の範囲です。「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで」と、主イエスはその宣教の広がりを予告されました。確かに使徒言行録の2~7章は「エルサレム」での宣教活動、8,9章には「ユダヤとサマリア」への広がり、そして10~28章には「地の果てにまで」及ぶ進展の過程が描かれています。しかし、既に語られているように「エルサレムを離れないで」、エルサレムから宣教は始められなければならなかったのです。エルサレムは弟子たちにとって、決して居心地の良い場所ではありません。躓きや失敗をした苦い経験の場でもあるし、彼らのそうした失態を知っている人々も多い。しかし、そういう場でこそ証をしていくことこそ、伝道にとっては大切なことではないでしょうか。旧約の預言者ヨナは、ニネべに行くように神から命じられたが、彼はそれに従わす他の国へ行き、思いがけない災難に遭ったのでした。しかし神は、その後悔い改めたヨナに、再びニネべに行くように命じられました。そしてここには何よりも、福音の普遍性が語られているということです。福音は全人類、全被造物、全世界のためのものであるという真理が示されています。宣教の範囲は、まさにグローバルであるのです。        牧師  三ヶ嶋 徹

 

2020.5.31「聖霊を受けなさい」 使徒言行録2:1~21

 ここでもっとも不思議なことは、弟子たちが「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(2:4)ことでした。その内容は、「神の偉大な業」でした。この日は五旬祭で、ユダヤ人の祭りでしたから、当時のローマ帝国の各地から敬虔なユダヤ人や改宗者たちが、大勢神殿に礼拝に来ていました。9,10節にあげられているのは、当時のローマ帝国全体に広がる、地中海沿岸の十五の地域に住んでいる人たちで、話し言葉はみな異なっていました。ところが聖霊に満たされた弟子たちが、アジア、アフリカ、ヨーロッパの各地から集まって来た人々が「めいめいが生まれた故郷の言葉」で話しているのを耳にしたのです。もちろん、その国、その地方の人にはそれがすぐに理解できます。しかし、自分の知らない地方の言葉を聞いているときには時には、何を言っているの分からない訳ですから、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と、嘲る者たちがいたのもうなずけることかも知れません。かつて、バベルの塔建設によって、混乱(バラル)させられた人類の言葉が、神の霊が語らせる、主の御言葉によって統一するのです。これは、弟子たちの語る「福音」が、全世界の人々に伝わり、しかも、理解されたことを示しています。人々が神に背き、自分勝手な思い思いの生き方をする結果、互いに心と心のふれあいを失ってしまっている現実の人間社会です。しかし今や、この聖霊降臨の日を境にして、「福音」の言葉による世界の統一がもたらされるということなのです。心のすれ違いやふれあうことの出来ないことに起因する様々な破壊と混乱は、神の言葉の活動である聖霊の働きによって終わりを告げ、新たに、隣人愛と相互理解と信頼に基づく人間関係に至る道が備えられたと言うのです。         牧師 三ヶ嶋 徹

bottom of page