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​2020年4月のメッセージ

2020.4.5「平和の王が来られる」マタイ21:1~11

 イエス様は今、先頭に立って行かれます。それはこれからエルサレムで起こることについて、決してファリサイ人や律法学者の思惑によって、これから起こる事件に巻き込まれたのではないと言うことです。つまり十字架は主イエスが受けた災難というようなものではなく、また運命や宿命でもなく、実にイエス・キリストご自身が、自ら引き受け、自らそれを苦い杯として受けられたことなのです。そこにはもちろん父なる神のご計画がありますが、それはイエス様のご意志でもあったのです。けれどこれから主のなさることは変わっています。二人の弟子を遣いに出して、まだ誰も乗ったことのない子ろばを引いてくると言うことなのです。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ロバのつないであるのが見つかる」と言われるのです。そんなにうまく行くのでしょうか。しかし、アブラハムが息子イサクを献げよと命じられた時、神さまは代わりの雄羊を備えられたことを思い起すなら、神さまが子ロバを用意されることは簡単なことです。でも弟子たちはこのイエスさまの見通しに黙って従い、向こうの村(ベトファゲ)に行ったのです。行ってみると、果たして、その通りでした。しかも、それは「村に入るとすぐ」に見付けられたのです。加えて、大切なことは「子ロバも用いられる」ということです。私たちの生きる現代は、まさに馬(軍事力・経済力)により頼む歴史です。国家であれ、地域社会であれ、私たちの個人的生活であれ、馬こそが全てと考える社会です。そしてこれに乗り遅れてはならないと、先を争うのです。このような歴史的状況・社会状況の中で、もう一度、イエスさまが子ロバを用いられたことを覚えましょう。

      牧師 三ヶ嶋 徹

 

2020.4.12「キリストと共に復活させられた者」マタイ20:1~18

 週の初めの日、すなわち今日の日曜日の朝早く、マグダラのマリアは夜明け前に墓に行きました。このマリアはガリラヤ湖西岸の町マグダラの出身で、かつてイエス様に七つの悪霊を追い出してもらった女性です。彼女は終始イエス様に付き従っていました。このことから、イエス様によって悪霊から救われたことが彼女の生涯にどのような意味を持つようになったかを、十分に知ることが出来るでしょう。

安息日は土曜日の日没で終わっていますが、その夜は誰も墓には行っていません。みな夜明けを待っていました。そして次の日の朝、婦人たちは墓に出かけました。弟子たちが一人も行かないうちになのです。静かで目立ちませんが、しかし力強い婦人たちの姿がここにあります。「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。」(19:25)とあるように、イエス様の宣教の頂点で言える十字架と復活の生きた証言者として彼女たちは立っています。見事としか言いようがありません。彼女たちの忍耐強くひたむきな信仰の姿勢に私たちも見習う点があるのではないでしょうか。

 さて、マグダラのマリアが墓に来ると、墓石はすでに取り除かれていました。誰かが主の遺体を奪っていったと思ったマリアはペトロと主の愛弟子のもとに走り、事の次第を告げたのです。知らせを聞いたペトロと愛弟子は墓に走って行き、先に付いた愛弟子は墓がからであることを確認をします。中にこそ入らなかったが、入り口からのぞき込んで亜麻布のあることを確かめました。愛弟子もこれを見て主の復活を信じたのです。彼はからの墓を見て、神の力によってイエス様の復活を信じたのです。ここに見ないで信じる信仰が証しされています。

 しかし、本当に彼ら弟子たちが真実に、復活の主の信仰に生きるのは、この後のイエスさまのお言葉によらなければなりません。それは20:21の言葉です。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」が必要です。このように主のお言葉によって、あのエマオ途上で語られた「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」(ルカ24:26,27)を通して初めて「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(ルカ24:32)主の語られる御言葉を直接に聞くとき、私たち心に燃えるものを持つのではないでしょうか。   牧師 三ヶ嶋 徹

 

2020.4.19「あなたがたに平和があるように」ヨハネ20:19~31

 『イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」今、イエス様が弟子たちのもとに来られたのは、復活の信仰の確信を与えるためだけでなく、イエス様の宣教を継続する者として弟子たちを派遣するためでもありました。また、イエス様はその命令を遂行する力を与えて下さいました。

 『彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」』イエス様は弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言われます。息を吹きかけるという記述は、人類創造の出来事を想起させます。神が土のちりで人を造り、いのちの息を鼻に吹き込まれると、人は生きる者となった。今、同じように弟子たちは復活の主イエス・キリストによって、いのちの御霊が吹き込まれ、新しく造られた者となったのです。さらに、弟子たちが宣教するにあたって一つの権能が与えられました。罪を赦すこと、それは神にのみ出来ることであって、私たち罪人である人間には出来ないことです。しかし、神が罪を赦されたことを、宣言することは私たちキリスト者に委ねられた特権です。このことは、マルチン・ルターが語った全信徒祭司制に通じることではないでしょうか。

 罪赦され、キリスト者とされた者は、犠牲の供え物を神の御前に携えることなく、進み出ることが許された。そして、大胆に民の執り成しを祈ることが出来るのです。そして、弟子たちのように「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。」のです。世にあって、私たちキリスト者が神の御前において、このように祈らなければ、誰が祈るのでしょうか。   牧師 三ヶ嶋 徹

 

2020.4.26「イエスは生きておられる」ルカ24:13~35

 主は今、失望の中に落胆している彼らに、「モーセと全ての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」とあります。キリストが必ず苦しみを受け(十字架)、栄光に至ること(復活)です。彼らは後でそれが主であったと分かると、その時のことを回想して言っています。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。」とあります。また、み使いの言葉によって、イエスがご自分の十字架と死と復活を予告されていたことを女のお弟子たちは思い出すことが出来ました。同様にエマオ途上のこの二人の弟子も、イエスの苦難と栄光に関する旧約聖書の言葉を、今度はイエスさまから聞かされた。この日の朝と午後の二つの出来事が、ただ復活のしるしとしての、空になった墓と復活されたキリストに出会うということだけであったなら、それはある意味彼らの個人的な体験にしか過ぎなかったでしょう。しかしいずれの場合も、イエスについての神の側からの証言があり、イエス自らの証言があり、そしてその言葉が彼らに希望を与えるものとなったのです。

 たとえ、私たちが悲しみを持ち、望みを失ったとしても、この私に悲しみの人生に主がお立ち下さって、共に歩んで下さり、御言葉を持ってご自身を顕して下さいます。私たちは人からの百の言葉を持っての励ましよりも、復活の主からの御言葉を持って初めて、「わたしたちの心は燃える」のです。悲しみと失望の内に始まった二人の歩みは、この後エルサレムへと向けられます。そこで他の弟子たちと復活の主との出会いの喜びを分かち合います。またさらに、このルカによる福音書24章52節では、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」とあります。   牧師 三ヶ嶋 徹

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