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2020年3月の“ギフト”
ヨブ記における苦難(2) 《故伊藤正春兄(津教会会員、神学生)のメッセージから》
仏教と聖書
仏教は人生における苦しみの問題を目的論的に解釈していない事が分る。この点は聖書における苦しみの理解と、基本的に相違している。何故なら、聖書は、唯一絶対者による、世界創造、創造者なる神信仰に立っているからである。そして創造信仰は人間の世界の存在に目的のある事を明らかにしている。それ故、苦しみの理解も、目的論的である。
日本人の神意識
恐らく、私達日本人は、キリスト教やイスラームで信仰される神を、それと意識しないまま信仰している。具体的な信仰の対象となる神や仏の向こうに、絶対的存在、この世を根底において支えているものを漠然としながらではあるが感じているに違いない。
今こそ、この絶対的存在、超越的存在の神を、日本人が漠然とながらではあるが感じている神について書かれている聖書に学ぶ事が出来るのではないだろうか。これらの苦難の時、神はどこにおられるのか。この問いは聖書でも繰り返されている。神が全能で全き善のお方なら、どうして苦難が起こるのか。続いて聖書から考察したい。
ヨブ記における苦難
ヨブ記は不条理な悪、苦難の問題について扱っている。ヨブは略奪と天災によって財産をすべて失い、すべての息子、娘も死んでしまった。続いて、ヨブは身体全体をひどい皮膚病で撃たれた。それからヨブは、自分の受けた苦しみが正当な理由の無いものである事を主張する。神が自分に敵対しているとしか思えないが、なお自分の正しさを証言してくれるものが天にあり、彼を「あがなう者」は、来世ではなく、この世において、彼の権利回復を果たしてくれるものと信じる。
人間はこの世界の不条理に直面し、人格的自由と主体性が一度破壊されるような体験を通して初めて、神の創造的自由の秘儀に与かる事が出来る。苦難の時にも、ヨブは神に向かって叫ぶ事を止めず、不条理にあっても背後に隠された神を求め続けた。そして、神自身の語りかけを受ける事によって不条理を克服する力を得たのである。神自身から語られた事自体が彼にとって救いであった。
「あなたのことを、耳にしてはおりました。/しかし、今、この目で、あなたを仰ぎ見ます。/それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます」(ヨブ記42:5,6)。
散文の終曲は、ヨブの運命の一切が回復されたことを述べて、ヨブ記を結んでいる。
ヨブの受けた苦難は人間の悪意(シェバ人、カルデヤ人)と自然災害(火、大風)の結果であった。しかし、それらの背後にはサタンの存在があり、その背後には神の存在があったのである。苦難の理由は、読者にだけ知らされている。つまりヨブの信仰の純粋さを疑うサタンに対して、神がヨブを信頼して試みる事を許されたのである。信仰者の苦難の問題に対して、因果応報の考え方に基づく議論は的外れであることを示している。はっきりしているのは、もしこの世が堕落していなければ、苦しみは無いだろうという事である。Ⅾ・A・カーソンはその著『苦しみの意味』で次のように言う。「神の意図は、人間が、見返りを受ける事なしに、神を愛し、恐れ、正しさを追求できることを示すところにあるのです。・・・サタンの議題は、あらゆる宗教的な関心は、きわめれば自己の利益に根ざしているし、もっとあからさまに言えば報酬目当ての誓約であるというものですが、ここに、それが誤りである事が明らかに示されます。しかし、ヨブ自身には自分の苦しみの側面を知らされていません。ヨブに関して言えば、測り知れない深遠な秘儀に直面している訳です」。
ヨブが苦難の中にあってすべき事はただ神を仰ぎ、忍耐することであったと示される。苦難を耐え忍ぶ。その事で神の栄光を現す事が出来る。行動によっては神のお役に立つことは何も出来ないし、かえって、人の世話を受けなければならない事さえあるかも知れない。それでも忍耐する。「何故ですか」という問いに答えは与えられなくても、神がその苦難が起こる事を許されたという事実を受け止め、それを忍び通す事によって、神の栄光を現す事が出来るのである。苦難に遭った人々の証しを読む時、神が色々な仕方でその人達に語り掛けて下さっている事に気づく。苦難のあるところには神の秘儀がある。ヨブの大勝利は決して神に背を向けなかったからである。苦難に遭った時、神が答えられるまで、ヨブのように神に叫び続けるべきである。
ヨブ記では、神の自己顕現について、神の言葉の中に説かれている。
「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。/これは何者か。/知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸を暗くするとは」(ヨブ記38:1,2)。
神の答えを要約すると、個人的な問題は創造というはるかに大きな枠の中に置かれねばならない。個人とは全体の中のごく一部でしかなく、だから図柄全体を理解することは出来ないという事である。
新約聖書における苦難
苦難に対する新約聖書特有の見方とは何かと言えば、それはイザヤ書53章で預言されていたように苦難のしもべ、イエスの受難である。何故ならイエスの苦難と死が新約聖書のテーマだからである。苦難を終わらせるために来られた方が最も深い苦難を体験するのである。イエスの物語は苦難、屈辱、恥辱の物語である。
神と隣人に自分を犠牲にして仕える事、苦しみを耐え忍ぶ事、神に服従して十字架を負う事などにおいて、イエスはキリスト者の模範である(マルコ10:43~45、へブル12:2,3、Ⅰペトロ2:21~24)。
ルカによる福音書13章1節~9節にある話であるが、ガリラヤ人がローマ軍によって殺された事件も、シロアムの塔が倒れて18人が下敷きになって死んだという出来事に付いても、他の住民よりその者達の方がより罪深かったからだと思うかと質問されたが、イエスはこうした因果応報的観念を人々の頭から追放した。むしろ、他人がこうむった災難を見て、自分達を彼らよりましだと思う事、彼らを気の毒がるような心こそ、実は、神の裁きの対象となる。何故なら、そこに自己保全を喜ぶ思いがあるからである。「あなたがたも悔い改めなければ皆同じ様に滅びるであろう」イエスはこの事件を他人事のように見ない。イエスは神に対する悔い改めを要求する。この無知なる自己保全の喜びこそ、あの犠牲者達の不幸にまさるあなた達の不幸である。それがイエスの答えである。
また生まれつき目の見えない人が連れて来られた時(ヨハネ9:1~3)、弟子達はイエスに尋ねる。
「罪を犯したのはこの人ですか。それとも彼の両親ですか」と。これに対しイエスは断言する。「本人が罪を犯したからでも両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。イエスは、苦しみを天罰とするそれまでの解釈に基本的転換をもたらした。イエスは個人の罪とか民族集団の罪の結果だとする考えを否定した。
しかし、ルカ13章の大切なところはその次のところである。そして主人は、収穫の時期になるとやって来たが、三年間も実がならないので、園丁を呼んで、そんなものは切り倒せ、何故土地を無駄にしているのかと言う。『ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って肥やしをやってみます。そうすれば来年は実がなるかもしれません。もしそれで駄目なら、切り倒して下さい』(ルカ:13:9)。この園丁はイエスである。イエスはご自分をご自分の譬話の中に登場させた。私は何のために来たか。あなたがたを神の前で、かばうためである。いちじくの木を、身をもってかばった園丁は、最後にどうしても実のならないいちじくを守って、自分が切り倒されたのです。イエスは十字架の上で、実のならないいちじくの木を徹底的に守り抜いて下さった。主イエスは存在を懸け、身体をはってこの譬を語った。
人間は、いつ死を迎えるか分からない存在である。今日、同じように他人の不可解・不条理な突然の死に出会う様な場合にも、それが自然的な死のみならず、罪による滅びのへの危険を知らせるために打ち鳴らす警鐘である。けれども、人間は、災害が来なくても、常に罪の行き着くところは、死であり、滅びでしかない事を覚える必要がある。
実を結ぶ事が出来なかった、もう駄目だと諦めるのでなく、神の前で悔い改めをし、もう一度やり直すと決心する事である。神の忍耐に望みを見出すのである。「苦しむ者よ、帰れ」と、神はすべての人間が帰るのを待ち望んでいるのです。