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​2020年6月のメッセージ

2020.6.7「イエス・キリストの祝福の中で生きる」 マタイ28:16~20

 第一の命令は「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」。これはまさしく全世界に伝道することを意味しています。イエス様の生涯においては、イスラエルの民に伝道する事が主体でした。しかし、イエス様の復活後はその枠が外され、あらゆる国の人々に福音を宣べ伝えるよう命令が与えられたのです。こうして弟子たちは

 「地の果てに至るまで」宣教のために出て行くのです。そして、各地にイエス様の弟子たちが生み出されたのでした。ここでいうところの伝道とは、イエス様の弟子を作ることであるのを忘れてはなりません。さて第二は、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」ることの命令です。それは単なる儀式として、または通過儀礼のようにバプテスマを授けるのではありません。「よって」という言葉は、「向かって」ともとれる言葉です。これはバプテスマを受けることによって、一人一人の信者が、三位一体の神との生きた霊の交わりを持つことを意味しています。第三は、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。これはイエス様の教えが、弟子たちを通して他の人々に正しく教えられ、それが生活の中で生かされるようにしなければならないと言うことです。ここには教会の教育的使命が示されています。伝道、伝道と言って一生懸命行っても、イエス様の教えが正しく教えられて、信徒の皆さんの信仰が聖書の御言葉に従って正しく成長していかなければ、真の教会成長はあり得ません。この重大な使命を果たすために、最後に主は言われました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。そう言って、弟子たちを励まされました。この使命は、弟子たちの力だけでは到底完遂することが出来ないものです。そのために、イエス様は深い配慮を持って、常に彼らと共にいて力を与え、励ましておられるのです。牧師 三ヶ嶋 徹

 

2020.6.14「福音を宣べ伝える」 マタイ9:35~10:15 

 「宣教」と言いますと、つい「どうやって」というように人の業を考えがちです。しかし「神の宣教」という言葉は、宣教の主体が神ご自身であることを意味します。この視点はとても大切です。イエス様は福音宣教のために弟子達を派遣しました。四つのポイント、一つ目は「宣教の動機」。私達が宣教する動機は大宣教命令のみではありません。イエス様は群集を見て、深く深く憐れまれました。生きる気力を失い、途方に暮れる人々を今日もイエス様は深く憐れんでおられる。私達はどうでしょうか。もちろん私達は完璧ではありませんが、この愛と憐れみの心こそが宣教の動機です。愛は相手の気持ちを考え、相手の必要を理解し、相手に寄り添います。

 二つ目は「宣教の現実」。収穫は多いが働き手が少ない。これが現実であり、まさに私達も同じ状況です。だからこそイエス様は、「収穫の主に祈りなさい」と言われました。それは教会組織を守るためではありません。失われた人々の救いのため、そして神のご栄光のためです。三つ目は「宣教の方法」。イエス様はそのために、徹夜で祈って十二弟子を選びました。そのメンバーの個性は多様です。特に徴税人と、熱心党の者という、全くうまくいかないと思われる人をもイエス様はあえて選ばれる。しかしこれが神の方法なのです。教会にも多くの個性があります。神ご自身が宣教のためにお一人お一人を選ばれたのです。四つ目は「宣教の目的」。第一の目的はもちろん人々の救いです。しかしもう一つ大切な目的は、弟子の訓練です。イエス様は弟子達に、お金を持って行くなと言われました。それは彼らがお金にではなく、神に信頼するためです。教会の会計が苦しいのも、実は神の取り扱いであり、良き訓練です。神の宣教の方法は人の目には非効率的に見えます。しかしそれはゆっくりと、しかし着実に進められる。これが神の方法なのです。     牧師 栗﨑 学

 

2020.6.21「主イエス・キリストに遣わされた者」 マタイ10:16~33  

 イエス様は、ここで、弟子たちの受ける苦難について語られました。それゆえ、「狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」と言っておられます。狼は狂暴な野獣であり、大人しい羊など、その前ではひとたまりもありません。これもイエス様特有の、聞く者に強烈な印象を与える表現ではないでしょうか。これらの危険から身を守るためには、弟子たちは蛇のように賢明でならないと言われます。また、鳩の持っているような純真さが必要であったのです。

 更にまた、ここでイエス様は予想出来る困難の例を上げておられます。それは弟子たちが、人々を惑わし、社会を混乱させるものとして捕らえられ、裁判にかけられるということでした。当時のユダヤ人社会では、エルサレムにサンヘドリンと呼ばれた「ユダヤ人最高議会」がありました。それと同時に、各会堂にも「議会」があり、そこで有罪の判決を受けると、すぐに、「鞭打ち」の刑が行われたようです。また、彼ら弟子たちはローマの地方総督である「長官」や、ローマ皇帝によって任命された国主であったヘロデ家の「王たち」の前に連れて行かれて、尋問されることも予想されたのです。

 しかし、そこでは、自己弁護のために何を言おうと迷うことなく、「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」。と主は言われます。実に信仰者たちには、聖霊の助けがあるのです。後に、使徒パウロはローマ8:26で「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」と語っています。』       牧師   三ヶ嶋 徹

 

2020.6.28「キリストにある真の平和」 マタイ10:34~42 

 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。」本日のこのような箇所を読んで、当惑しない人がいるでしょうか。ほかでもなく平和の君であるイエス・キリストが(ルカ19:38)、「平和ではなく、剣をもたらすために来た」とは、いったいどういう意味があるのでしょうか。

 イエス様が、私たちに向かって提起されたという、この主題「平和ではなく、剣をもたらすために来た」この言葉は、確かに、私たちを惑わせたり、心配させたり、心を乱すものです。イエス様が私たちの平和を否定されるのは、「私たちが考えているその平和が、真実の平和ではない。見せかけだけの平和だ」と言うことを、悟らせるためであると言えます。意見の合う者だけが仲睦まじくしているからといって、それだけで「平和」とは言えません。そんな見せかけの、見せびらかせるために表面を取り繕った平和は、小さな針の先を近付けるだけで割れてしまう風船のようなやわな壊れやすい平和でしかありません。

 そのような偽りの平和を打ち壊し、分裂させ、そこに、新しい、真実の平和を築き上げるように、イエス様は叫ばれたのです。無論のこと、真実の平和は、主イエス・キリストの十字架復活によって、私たちの罪の赦しと天国への道となって、実現している事実であり、真実に間違いはありません。 牧師 三ヶ嶋 徹

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