あなたの教会
神様はあなたを愛しておられます。
どんな時も共にいてくださいます。
今日、神様の愛に出会いませんか?
ようこそ!あなたは
2020年2月のメッセージ
2020.2.2「地の塩、世の光として生きよう」マタイ5:13~16
「あなたがたは地の塩である」かつてマルチン・ルターは、1530年から32年頃行われたと推定される説教の中で、「塩は塩のために存在するのではない」と語っています。事実塩は他者のために存在すると言って良いでしょう。他者の腐敗を防ぎ、塩味をつけ、清める働きを行うのです。しかし「塩に塩気がなくなれば」、もはや全く無用のものとなってしまい、「外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」とあります。けれど主イエス・キリストは「あなたがたは地の塩である」と教えられます。今、イエス様は、このお言葉によって、私たちクリスチャンの存在の意義とその働きと、機能が明らかにされているように思いますね。クリスチャンとは、自分のために存在しないで世のために存在し、世の腐敗を防ぎ、世に染み込んでこれにキリストの味をつけ、また時にはこれを清めなければならないのです。
「山の上にある町は、隠れることができない」光は常に人の目に明らかなところで輝いていなければならないと言われるのです。今の時代にあって、潜伏キリシタンであってはいけないと言うことです。
「あなたがたは世の光である」光は光のために存在しません。光は他者を照らすために存在します。クリスチャンは世の光です。しかしながら、クリスチャンは自分の自分自身の光で世を照らすことは出来ません。この世の中の大部分は自分の力で光るのではなく、他の光を反射しているに過ぎないのです。光そのものであるイエス・キリストの光を宿すことによって、クリスチャンは世を照らすのです。
牧師 三ヶ嶋 徹
20202.9「キリスト者の誇り」Ⅰコリント1:18~31
パウロは分裂問題のあるコリント教会に喝を入れる。私たちは誰も自分のことを賢いと考えませんが、議論が生じる時には、「自分の方が正しい」と考えて主張します。そういう時にはつい、自分の方が賢いという立場に立ってしまう。そのような私たちにパウロは、十字架の言葉に立ち返るようにと語ります。人は自分の知恵、知識、経験、功績などを誇ります。しかしそれらはあくまで人と比べてのこと。人との間で生きる私たちは、人と自分を比べて、まるでそれが真実であるかのように考える。人と比べて立派(劣っている)だから、自分は立派な(劣っている)人間なのだと考える。それは真実でしょうか?しかし神の目には、人の誇りは小さなものです。なぜならそれらはこの世のものであり、それによって永遠の命が得られるわけではない。神の目にはこれこそ大問題。人が自らを高い位置に置くとき、実はキリストの十字架は愚かに見えるのです。十字架はつまずき。人々はしるしを求め、自分の思い通りにならないなら信じない。そんなものよりも地位、名誉、経済力の方が頼りになると考える。しかし、「十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かなものですが、信じるものには神の力」である。神はこの愚かに見える十字架を「信じる者を救おうとお考えになった」。なぜ十字架が神の力なのか。それはここに神の愛が現わされたからです。神の愛を知りたい者は、キリストの十字架を見よ。あの姿は他ならぬあなたの罪のためである。このキリストを信じる者は罪赦され、永遠の命を得る。これこそ教会が宣べ伝えている福音。人と比べての評価が真実なのではない。しかし神があなたを愛して、あなたの罪の代価として愛する御子を十字架につけた。それほどまでにあなたを愛している。これこそ真実であり、キリスト者の唯一の誇りです。
協力牧師 栗﨑学先生
2020.2.16「しかしわたしは言っておく」マタイ5:21~37
イエス様は「山上の説教」の中で弟子たちに、兄弟に腹を立てる者は裁きを受けます、他人の妻をみだらな思いで見る者はすでに犯したのです、離縁してはいけません、天や地などにかけて誓わず「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と言いなさい、と語られました。十戒などの律法に書かれている殺すな、姦淫するな、偽証するな、などの戒めを思い起こさせながら、イエス様は「しかし、わたしは言っておく」と続けられ、外面的に守るだけでなく、心の底から日々正しく歩むことを勧めています。イエス様の弟子には何と清らかで完全な心が要求されているのでしょうか。
外面を取り繕っても神様が心の中までご存知で、正しくお裁きになるというのですから、これを聞きながら弟子たちはどこまでも自己中心でわがままな自分の心を恥ずかしく思い、絶望したことでしょう。しかしこの厳しいことばをお語りになったイエス様は、この「山上の説教」を「心の貧しい者は幸いです、天の国はその人たちのものです」という言葉でお始めになっていて、今日のみ言葉で私たちの心がいかに貧しいかをお示しくださったのでした。
自分は神様の御前に裁かれずに立つことができる正しい人間だ、とはとても思えない残念な心が、貧しい心です。イエス様はその私たちの罪の身代わりとして十字架の死によって神様の正しい裁きを受け、また私たちを心の底から新しく正しくしてくださるため復活されました。今週も、自分で自分を変えることのできない罪深い私を、心から愛し、ご自分の犠牲によって赦し、そして命にあふれて生かしてくださるイエス様を信じて、神様を賛美し、自分をおさえ、人々を愛して歩んでいきましょう。
神戸ルーテル神学校 正木牧人校長先生
2020.2.23「点検と確認」マタイ17:1~9
私たちは、信仰生活とりわけ祈りにおいて妙に自分勝手な思い込みをしがちです。当時の弟子たちや人々もさまざまな救い主のイメージを描いていたのです。イエス様はこの日も祈りのために、ペトロとヤコブとヨハネだけを連れて山に登られました。その山の上でイエス様の姿が変わったのです。ルカによると、この時、ペトロと仲間はひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエス様と二人の人が見えたのです。その様は、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなったのです。黙示録に、御国におけるイエス様の姿が記されていますが、そのことをあわせ考えるなら、まさにイエス様の姿は復活の時の姿であり、昇天し神様の右に座したもうた時の栄光の姿そのものでした。その光の中でイエス様はモーセとエリヤと語っておられたのです。ルカによれば「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」とあります。つまり、イエス様の死、十字架について語られていた、言うなれば最終打ち合わせがなされていたのです。神様の当初の計画通りに。つまりキリストの死、キリストの十字架によって、私たちが罪の奴隷の状態から解放される。そこから脱出させられることのために、着々と手筈が整えられていた(換言すれば、神様の計画の点検と確認がなされていた)のであり、その方法は人間には考えもつかない、否、受け入れがたい方法であったのです。神様が私たちのために「手筈を整え・点検と確認をして」、待ち受けてくださるのです。手抜かりなきよう、細心の注意を払い、完璧に。もう一点、注目したいところは、このとき弟子たちはひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエス様と二人の人が見えたのです。弟子たちはイエス様のまばゆい光に照らされ、目覚めました。ある説教者は「イエス様の輝いている顔が、弟子たちを立派に照らしたように、あなたをも照らしたいと望んでおられます。イエス様は、冷え切ったあなたの心を暖めて、あなたの心の暗闇に栄光に満ちた光を注ぎます。地面に蒔かれた希望の種を芽生えさせる時が来たのです。」イエス様の光は、弟子たちの瞼ばかりでなく、彼らの全身を覆い尽くしたのです。今朝、イエス様の光の中で、あなたはどう答えなさいますか。
栗﨑和重牧師