​2020年3月のメッセージ

2020.3.1「主の十字架への道行き」マタイ4:1~11

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。」とあります。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3:17)と言われた神様が何故に、その愛する子を荒れ野に追いやったのでしょうか。愛する子であるなら、試みにあわないように、苦しい状態から救ってくださることこそ、神の愛ではないかと思うのです。イエス様は前章の後半で、バプテスマのヨハネから洗礼をお受けになった後、悪魔の誘惑を受けるため、その身を聖霊にお委ねになりました。普通私たちは、洗礼を受けてすぐに困難に直面することや、ましてや誘惑にあうことなど、信じられないような気がします。もちろん御利益宗教的な理解を持っていないことなど当たり前のことなのですが、しかし、すぐに試みにあうのだけは、勘弁して欲しいという思いにならないでしょうか。ところがイエス様はあえてその道を選ばれたのです。神の一人子であるイエス様は、人の悲しみや苦しみを知らない方ではないのです。ヘブライ人の手紙の著者はこう語っています。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(ヘブライ2:17,18)。イエス様が試みを受けられたのは荒れ野です。ギリシャ語で<エレーモス>と言い、何もないところ、頼る者を持たないところ、孤児と言う意味を持っています。人が人に頼れない、ただただ神にのみにより頼む、イエス様はこの荒れ野で、食を断ち、これからの公生涯の歩みに入られる前に、父なる神様に依り頼み、その歩みを確かなものとしてくださるように祈っておられたのです。世の力ではなく、政治的な力ではなく、ましてや悪魔の力ではなく、ただ父なる神にのみ、全てを明け渡して生きていくことが出来るかの戦いを主は成されたのです。

                                     牧師 三ヶ嶋徹

 

2020.3.8「わからない。でも信じる」ヨハネ3:1~17

多くの人は、わからないのに信じるなんてできないと考えるでしょう。しかし私達の生活では、わからないけど信じていることがたくさんあります。例えば食品の多くは、具体的な製造過程がわからなくても、製造者を信じて食べます。しかしなんでも信じればよいわけではありません。聖書は「偽預言者に警戒しなさい」と警告しています。イエス様を信じる場合においても、ニコデモはこの人物を客観的かつ冷静に判断して、「神のもとから来た教師」であると信じました。これは「わかったから信じる」の段階です。しかしイエス様は言われました。「人は水と霊とによって、新たに生まれなければ神の国に入ることはできない。」これはニコデモにはわかりませんでした。水と霊とは洗礼による救いを表しますが、私達にはそれがどのようにして起こるのかはわかりません。そこでイエス様は風のたとえを話されます(8節)。私達は風がどこから来るのかいちいち考えません。しかしそれでも気持ちの良い風を感じ、それで十分なのです。同様に私達には神様の働きを細かく理解することはできません。しかしすばらしい愛を確かに感じることができ、またそれで十分なのです。イエス様は「私こそ天から降ってきた者。すべてを知り、また見たことを証しする者。私を信じなさい。あなたは私を信じるだけで十分である」と言われるのです。イエス様は木にかけられ、高く掲げられる。それは信じるあなたが永遠の命を得るため。神はこれほどまでにあなたを愛された。その証しをどのように受け取るでしょうか?ニコデモのように「どうしてそんなことが起こるでしょうか?」と問うか、「わからない。でも信じます」と受け取るか。それで十分なのです。

                                  協力牧師 栗﨑 学 先生

2020.3.15「キリストから流れ出る命の水」ヨハネ4:5~26

人間には決して物質的なものでは癒されることのない渇きということを経験するものです。苦しんで、悲しんで、辛くどうしようもない時があります。そういう時、世の中の何をもって、この渇きを癒すことが出来るのでしょうか。イエス様はその渇きを癒す心の魂の話しをしておられます。このサマリアの女性は、過去に夫を五人代えていました。そういう彼女の生き方が、このシカルの町の人から良く思われていなかったのでしょう。つまり、誰とも会いたくないから暑い最中に水を汲みに出て来たのです。イエス様はこの女性の誰にも知られたくない事情を知っておられました。私たちも他人に対して知られたくないところがあるでしょう。でもイエス様はそう言う人に知られたくない部分や暗いところを癒すために、彼女のところに来られたのです。自分のことを言い当てられた女性は、「主よ、あなたは預言者だ」と言い、また「礼拝すべき場所はエルサレムですか」と問うています。しかし形式や場所ではなく、またさらに民族や国籍を超えて、今やイエス・キリストの十字架において、心から神を信頼し、信仰する人たちを神様は祝福してくださいます。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」形式や場所ではなく、またさらに民族や国籍を超えて、今やイエス・キリストの十字架において、心から神を信頼し、信仰する人たちを神様は祝福してくださいます。

                                     牧師 三ヶ嶋徹

 

2020.3.22「神の業がこの人の上に現れるため」ヨハネ9:1~41

イエス様は、旅の途中で生まれつき目の見えない人と出会われ、その人の目を癒やされたのですから、周囲の人々は驚きました。しかし、これが律法違反だとして、ファリサイ派の人々が騒ぎ出し、目が癒やされた人を、更に、彼の両親をも問い詰めるのです。そのような騒ぎの中で、自分の目を癒やしてくださった方がメシアであることに気付いてきた彼は、「あの方が神のもとから来られたのでなければ・・・・」とファリサイ派の人々にはっきり言います。結果、彼は村から追放されてしまいますが、再びイエス様にお会いし、信じる者へと変えられたのです。私たちも、イエス様に従って行こうと決心すると、必ず世間からの軋轢を受けます。なぜなら、イエス様の価値観と世の中の価値観は全く正反対だからです。しかし、イエス様は、信じるが故に受ける試練に対して、私を励まし、助けて下さるのです。加えて、ユダヤ人やファリサイ派の人々は、「どうしてか?」と質問を繰り返し聞きます。人々は、彼か彼の両親の罪のせいだと決めつけていたため、彼の目が癒やされたという事実が理解できず不思議でたまらず、その現象を確認することに囚われて、なぜこの人の目が癒やされたのか、と言うことにまで考えが及びません。「自分の目の前で奇跡が起これば、神を信じる」と言う人が大勢います。しかし、「生まれつきの目が見えない人の目が見えるようになった」と言う奇跡を見ても、人々はイエス様を救い主と信じることが出来ませんでした。奇跡と、神様を信じることとは、全く別問題なのです。多くのユダヤ人は、選ばれた民族意識から、神の国に迎えられると堅く信じ、疑っていませんでした。現代にも、「自分は特に悪いことをした訳ではないから・・・・」と考える人々がいます。たとえ、私たちの肉体の目が見えていようとも、霊の目が見えていなければ、盲目と同じだとイエス様は言われます。クリスチャンの苦難は、神様の栄光を現すための苦闘なのであって、決して何かの罪の故ではありません。従って、それには必ず目的があり、私たちをクリスチャンとして成長させるための恵みが秘められているのです。

                                     栗﨑和重先生

 

 

2020.3.29「主が愛しておられる者」ヨハネ11:1~16

マルタとマリアとその兄弟ラザロにとって、多くの人々を癒しておられたイエス様を知っていたこと、イエス様に愛されていたことは、どんなに心強いことだったでしょうか。私たちは、自分はイエス様に愛されていると言えるでしょうか?自分は愛されていると言うのは、なかなか言い難いものですが、イエス様は、愛される理由など何もない私のために、命を懸けて十字架の上で、愛を示してくださったのです。私たちは、イエス様のその愛を、恵みとしていただいたのですから、謙遜になって、私たちも、「主よ、私はあなたが愛しておられる者です。」と言おうではありませんか。どんな時も、イエス様の十字架の愛に立ち返って、「私は主が愛しておられる者です。」と申し上げて、マルタとマリアの姉妹のように、私たちの心の願いを、私たちの救い主であられるイエス様にお伝えすることができることは、どんなに大きな恵みでしょうか。どんな苦しみも悲しみも、苦しみままで、悲しみのままで終わるものはありません。私たちのために十字架にお架かりくださり死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上られた復活のイエス様を信じる私たちにとって、この世とお別れする死さえも、私たちの終わりではありません。私たちは、今の艱難や苦しみや悲しみの意味も、救いの時も知らされてはいませんが、復活の主、命の主が、最善の時に最善を成してくださることを信じることはどんなに幸いなことでしょう。神の言葉、聖書の言葉は、命の糧、生きる力、道の光、歩みを照らす灯です。私たちが神様を信じて、神様の言葉に生きることが、神様に栄光を帰することになるのです。神様の御名をほめたたえます。

                                      村上丈子姉

近畿福音ルーテル津教会
​ 牧師:三ヶ嶋 徹

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