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​2020年1月メッセージ

2020.1.5 「栄光の救いの到来」マタイ2:1~12

ユダヤ人の王として拝されるところは、このベツレヘムの馬小屋とあの十字架なのです。馬小屋と十字架、まさに人間の最低の苦しみの中で、イエス様は王であり、勝利者であると言うことです。遠いところから星が先立って導いた場所は、人が望み、考えるような輝かしい栄光の場所ではなく、どちらかと言えば貧しさ、小ささ、弱さのあるところでした。そのような場所に福音の良きおとずれがあったのです。ここでミカ5章1節の御言葉「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。」が語られていますが、「いと小さき者」と預言されているにもかかわらず、このマタイの御言葉では、「決して小さい者ではない」とわざわざ言い換えられています。イエス・キリストにおいては、「最も小さい者の一人」(11:12,18:10,25:40)が覚えられていると言うことなのです。

主の輝かしい栄光、その福音は、この地上の最も小さい者に光をあて、それを「小さくない」と言ってくださるのです。世の人々が、宿命論が「お前なんか、小さくて役に立たない」と言って投げ捨てようとも、あなたと共におられる神は、あなたは高価で尊いと言って、拾い上げてくださる神なのです。主の前に本当に小さく、低く、貧しい者だけが、真の神の祝福にあずかることができるのです。

                                                 牧師  三ヶ嶋 徹

 

2020.1.12「ヨハネが驚いたこと」マタイ3:13~17 

なぜイエス様が洗礼を受けたのかということはしばしば問題になります。イエス様に罪がないということを知っている者であれば誰もが疑問に思うでしょう。だからこそヨハネ自身もイエス様を「思いとどまらせようと」したのです。これが一つ目のヨハネが驚いたことです。しかしイエス様は15節で「正しいことをすべて行うことはふさわしい」と言われました。この「行う」という言葉は、「成就する、実現させる」という意味の言葉です。そして実際にイエス様が洗礼を受けた時に、ヨハネが驚いた二つ目のことが起こりました。天が開いて神の霊がイエスの上に降った。そして天から声が聞こえました。それはまさにイザヤ42:1、および詩編2:7の預言の実現でした。ヨハネはこの出来事を目の当たりにし、「この方こそ神の子である」(ヨハネ1:34)とはっきりと述べました。イエス様の受洗により、預言が実現し、この方が神の御子であることがはっきりと現されたのです。

このイエス様の洗礼でもう一つ注目したいことは、14節のヨハネの発言です。そしてこれは私たちのセリフでもあります。「主よ、私こそあなたのもとへ行くべきなのに、あなたが私の所へ来られたのですか。」そうです。あなたを救うため、主があなたのところへ来られたのです。これが良き知らせです。イザヤ42:4にはこの良き知らせを待ち望んでいる人々がいることが預言されています。だから多くの宣教師は福音を私たちのところに宣べ伝えたのです。そしてこの福音を待ち望む人は、今もなお私たちの周囲に必ずいます。この福音を、驚きと喜びをもって宣べ伝えたいと思うのです。

                                                     栗﨑 学牧師

2020.1.19「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」ヨハネ1:29~42

ヨハネの証しは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」なのです。水だけでは、わたしたちの罪は取り除けません。イエス様の贖いの血によらなければ、私たちから罪は取り除かれないのです。洗礼の水はその証しです。教えや教訓だけでは、どうしても罪は取り除かれないのは、罪の持つ現実の力の強大さにあるのです。「キリストもあなた方のために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。~そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。~そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(Ⅰペトロ2:21~24)。私たちは、イエス様の足跡に続くように歩んで行く者なのです。もちろん私たちが十字架にかかって、人々の罪を取り除くことは出来ません。しかし、人々のためにとりなして行くことは出来ます。「父よ、彼らを赦しください」という、あの十字架のイエス様の祈りです。この祈りが私たちの成すべき祈りなのです。さらに、預言者イザヤの書を用いてヨハネが語ったように、私たちも今の時代にある「荒れ野で叫ぶ声」とならなければならないでしょう。声としてヨハネの存在とその足跡の中に、私たちは神の証人としての教会とキリスト者の原点を見出します。私たちが声になることによって、この世の人々は初めてイエス・キリストの出会うことが出来るのです。そして、教会全体が一つの声になることによって、はじめて人はイエス様を神の子として受け入れる備えが出来て行くのです。今日、キリスト者の声は、はっきりと聞こえているでしょうか。教会が一つの声となって人々の耳に届いているでしょうか。そして、その声は確実にイエス・キリストを指しているでしょうか。

                                                牧師  三ヶ嶋 徹

 

 

20201.26「網を捨てて従う」マタイ4:12~23 

「召命・召し」の声を聞くと、普通多くの場合、いろいろ言い訳をし抵抗します。旧約の「ヨナ」もまた然りでした。ヨナは神様に2度も文句を言いますが、神様の憐れみの言葉に沈黙します。さて、イエス様から召された四人の漁師たちは「すぐに網を捨てて従った」と記されています。当時、ガリラヤ湖は漁業が盛んで、塩漬けにされた魚はローマにまで輸出されていたようです。言わば、彼らは今日の花形産業に従事する者だったのです。シモン・ペテロは信仰的には全く未熟な人だったようです。と言うのも、群衆は皆、イエス様から神様の言葉を聞こうと押し寄せているのに、彼は一生懸命に網を洗っていたのです。また、シモンのしゅうとめが熱を出していた時、彼女のためにお願いしたのは彼ではなく人々であったとも記されています。ペテロはどうも「病人が祈ったら治るとか、神様の言葉を聞くことも大切かもしれないが、実生活のことはそれ以上に大切なことなのだ」と言う立場にいる人であったとも想像できます。彼にとって今大切なのは、イエス様の言葉に耳を傾けるよりも、魚をとることのほうが大切だったようです。ではなぜ、彼らはすぐに網を捨ててイエス様に従い得たのでしょうか。網というのは、いわば経済生活の安定の保証です。もっと広く言えば、地位名誉、学歴、人生・社会経験、等々と言えるでしょう。ヤコブ、ヨハネの場合は、雇い人たちを残してとありますから、網元で財産家だったとも解釈出来ます。彼らは納得したからイエス様の言葉に従ったのでしょうか。少ない経験でしたが、イエス様が、人々を愛されていることを知らされ、更に自分が愛されていることを知ったからこそだと思います。「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。・・・・この町には、わたしの民が大ぜいいる。」使徒18:9 同じことがここ津にも言えます。津には、わたしの民が大ぜいいる。「どうしてわたしが、この津を惜しまずにいられるだろうか。そこには、27万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」主よ、ここにわたしがおります。わたしをお用いください。

                                                栗﨑和重師

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