2019年3月3日「主の栄光の姿と共に」  ルカ9:28~36

 フィリポ・カイサリアで、初めてご自身を「救い主メシア」であることを明らかにされ、その時最初の十字架に続く復活について言及されました。ところがペトロはその意味が理解できず、主をいさめます。今日のところでも、何を言っていいか分からないペトロが、仮小屋を建てて、主イエスと旧約の代表者である・モーセ・エリヤ、その素晴らしい栄光をこの世に留めようとします。しかしイエス様は、この山を下りて、十字架への道を歩まねばなりません。何よりも十字架は、悩み苦しむ世の人々の為に立てられなければなりません。ペトロはいつも十字架抜きの栄光を求めていました。この世だけの栄光を求めていたのです。故に、キリストが十字架にかかる前夜、彼は失望して三度キリストを否んでしまうのではないでしょうか。けれど十字架はそれだけでは終わりません。それに続く復活があるのです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:23)との、主の力強い約束の言葉を信じて、主イエス様に聞き従う者となりたいと思うのです。最後に、『すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。』とあります。私たちは先週百人隊長のイエス様に対する言葉、「ひとこと、おっしゃってください」を聞きました。これは以前にも言いましたように、御言葉を聞くの姿勢ではなく、御言葉に聞く姿勢なのです。全知全能の神の御前にあって、絶対的な服従、聞き従うのです。そこに主は大きなみ業をもって臨んで下さることでしょう。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」アーメン。      (主任牧師 三ヶ嶋  徹)

 

2019年2月10日「魂 の 救 い」  ローマ10:8b~13

 教会が宣べ伝え続けている福音とは、魂の救いについてです。しかし多くの人はその必要性をあまり感じていません。世界保健機関において、健康の定義の中に、「霊的健康」という要素を加えることが提案されました。魂の救いをいただいているということは、非常に大切なことなのです。魂の救いが必要、それは罪の問題があるからです。旧約聖書を読む時、「神様は非常に厳しい方だ」と感じることがしばしばあります。神様は罪に対して非常に厳しいのです。人の目には「厳しい」と見える。その裏には、「そんな些細なことで…」、「それくらい良いじゃないか」と考えている証拠です。罪人は罪に無頓着です。罪は人の目には小さく見える。しかし完全に聖であり義なる方である神の目には、大問題なのです。なぜなら人は罪により死を得るからです。神の御心は、「悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ立ち帰って生きることを喜ぶ」(エゼキエル33:11)のです。そこで神は、あなたの罪を「吹き払った。わたしに立ち帰れ。わたしはあなたを贖った」(イザヤ44:22)と言われる。贖うとは、奴隷を解放するために代価を支払って「買い戻す」という意味の言葉です。罪の奴隷である者を解放するためには、代価が必要である。「罪の報酬は死です。」つまり死をもって支払われなければならない。神があなたを「買い戻した」と言われる。キリストの十字架の死という代価をもって。だから神は「立ち帰れ」とあなたを招くのです。この救いを受け取る方法こそ、心で信じること、そしてその信仰を隠し持つのではなく、公に言い表すこと。「信じて洗礼を受ける者は救われる」のです。信じることは時に勇気が必要です。しかし「主を信じる者は、だれも失望することがない」のです。                           (協力牧師 栗﨑   学)

             

2019年2月17日「主によって立ちなさい」  ルカ18:31~43

 「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」ダビデの子という、救い主の称号で、イエス様に呼びかけました。この人はイエス・キリストについて、その救いについて、まだ多くのことが分かっていません。けれども感覚は鋭く、直感的にここには、救いがある、本当の救いがあると感じていたのでしょう。見ている人たちがいます。ただ見ているだけの普通の人は、物は見ています。しかし、見ているだけの傍観者というのがあります。聞いているだけの人がいます。聞いているだけの傍聴者です。しかし、救いを感じ、求め、追求してはいません。考えているだけのクリスチャンよりも、この目の見えない人の信仰は、はるかに力強いものがあります。人々の制止にも屈せずこの人は「ますます、ダビデの子よ、わたしを憐れんでくださいと叫び続けた」とあります。彼の叫びは、賢い人から見れば、愚かな執念にしか映らないでしょう。ただ「わたしを憐れんでください」ですから、私たちが式文の「キリエ、エレイソン」と歌っていますが、この人のように真剣な思いを持って、心の中からの叫びを持って訴えている人がどれほどこの中にいるでしょうか。何回も、何回もイエス様に向かって問いかけると、今度はイエス様の方で問いかけてこられます。「求めよ、さらば与えられん」「全て求める者は見いだし、門をたたく者は開けてもらえるのです。」イエス様は、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。確かにイエス様の「見えるようになれ」がなければ、この人は見えるようにはならなかったでしょう。私たちの信仰の前に、イエス・キリストの御言葉があります。主の御旨があります。それなにしには何事も起こりません。私たちの信仰だけなら、何が起こるでしょうか。にもかかわらず、主イエス様は、「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。ただイエス様が事をなさる、それを受ける受け皿が必要です。受け皿無しには水もこぼれてしまいます。私たちの信仰、それはこのイエス様の偉大な御力を受け入れる器なのです。

                                                (主任牧師 三ヶ嶋 徹)

 

2019年2月24日「神は待っておられる」ルカ13:1~9

 イエス様が人々に対して話をしていました。その内容は「人間は神様に対してどういう態度をとるべきか、その神様は私たち人間にどういう態度をおとりになるのか?」でした。そこにひとつの事件の二ユースがもたらされます。ガリラヤの人たちが死亡したというのです。私たちは生きていく上で、さまざまな困難に出会います。突然の事件や事故に巻き込まれることもあります。その時、「なぜ、私の上にこのようなことが・・・」と人間は考えるものですがイエス様は「あなた方も悔い改めなければ皆同じように滅びる」と、人間は死ぬものである。死は神の裁き以外の何ものでもない、と言われました。そして、ぶどう園に植えたいちじくの木のたとえ話をされます。登場するのは、いちじくの木を植えた主人、木の世話をしている園丁です。どうしてぶどう園にいちじくの木を植えるのかと思いますが、当時はこのようにしていたそうです。一説ではこのようにいちじくの木を植えるとぶどうの収穫が増えると考えられたのだそうです。さて、このたとえ話の中で、いちじくの木を植えた主人とは父なる神様のことです。そしてその木を世話をしているがイエス・キリストです。それではいちじくの木とは何を指すのかですが、神様によって植えられた木ですから当時のユダヤ人であり、現在のキリスト者のことなのです。父なる神様は私たちに求める実を見つけることが出来ないので切り倒せと言われる。求める実とは、悔い改めて神様の御前に神様と共に生きるということです。それが見られない以上、切り倒すしかない。裁くしかない。滅ぼすしかないと言われるのです。しかし、それに対して園丁は「肥やしをやってみます。そうすれば来年は実がなるかもしれません。・・・」と言うのです。この言葉は私たちに「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と言うイエス様が十字架の上で祈られた言葉を思い起こさせます。「肥やしをやっています・・・」の肥やしとは十字架です。悔い改め、神の子とされた者としてのふさわしい実をつけましょう。                (近藤幸一牧師)

近畿福音ルーテル津教会
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