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2019年2月3日「主にある真実の幸いとは」ルカ6:17~26

 「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである」一体どうして、このわたしが幸いなのか、このような貧しく、弱い者が幸いなのかと、群衆は考えたかも知れません。確かに貧しさは幸いではありません。今、ここに立たれ、この世に来て、この世の悩みを負うて下さるお方は人の嫌う罪や悩みを一身にその身に背負い、この貧しい人たちを祝福されるのです。もちろん、貧しさや罪を祝福されるのではありません。世の人たちから顧みられることのない、罪人とレッテルを貼られている人を、主の御前において、本当に癒しを求める人々を、貧しい人々を、主は祝福されるのです。この貧しい者たちは、主の富にあずかるのです。今、祝福されるイエス様ご自身が、その富を分かち与えて下さるのです。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(Ⅱコリント8:9) このように主は、ご自身が貧しくなることによって、私たち貧しい者に、ご自身の富を分かち与えて下さるのです。(牧師 三ヶ嶋 徹)

 

2019年2月10日「霊的に大人になる」  コリントⅠ14:12~20

 愛とは他者との関係において活きるものです。私達は他者を愛し、また愛されたいと考えます。しかし私達の内にはもう一つ、「自分こそが大切にされたい」という欲求があります。これが愛と反対の行動を起こすわけです。自分と他者、どちらも大切だが、やはり自分の方が大切。これが私達人間にとって愛することが難しい理由でしょう。「ものの判断については大人になって下さい」その判断とは自分が喜ぶことよりも、他の人を造り上げることを考えるということです(17節)。愛は他の人の事を考えます。その究極的な姿は、「自分」という考えが無くなることです。イエス様は言われました。「敵を愛しなさい。」この愛の姿には「自分」という考えが全くありません。自分のことを考えたら敵を愛することは不可能です。そのような愛を誰が持つことができるでしょうか。イエス様だけです。イエス様は自分のことなど全く考えずに、敵であった私の為に命を捨てられました。父なる神は恩を知らない私にも情け深く、神の子として下さいました。だから「あなたも憐れみ深い者となりなさい。」もしあなたの敵があなたを愛したらどうでしょうか。つまりイエス様が語られた愛を、もしあなた自身が他の人から受けたなら、きっと心の中で大きな変化が生じるでしょう。本物の愛は人に大きな変化を与えるのです。私達が神様の愛をしっかりと受け取り、またその愛を他の人を造り上げるために示すなら、他の人の内にも変化が生まれます。神様はあなたが人から愛されることよりも、あなたが人を愛することを望んでおられます。何故なら神様が十分にあなたを愛しておられるからです。                                  ( 協力牧師 栗﨑 学)

 

2019年2月20日「神の愛と赦しの大きさ」  ルカ6:37~49

 ここでイエス様は、「人を裁いてはいけない、正義の声を上げてもいけない。人を導いてもいけない」と言っておられるのではありません。また、「人の目にあるおが屑を、取り除いてはいけない」と言っておられるのではありません。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。~ 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」(ルカ6:41~42)と言っておられるのです。つまり人を正すことがいけないのではなく、自分の目に大きな丸太があるのを忘れていること、そのことこそが、いけないのです。そうでないと、私たちはいつも教師気取りで得意げに人に指図したりします。しかもそれは常に人の上位に立ちたい、優越感にひたりたい気持ちと同居しているものです。そこにはいつの間にか意識しないで、どちらが上で、どちらが下かという、上下の思いが出たりしていないでしょうか。私たちの主なるキリスト、神様という絶対存在、基準を忘れて、自分が神になる、人間それに気づく時はいつみ痛い目に遭っていることが多いものです。『 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」』(創世記3章の蛇の女への誘惑の言葉に端を発するもの)。神の被造物である私たちは、神のみ心を反映するものとして、生かされていることを覚えたいと思います。                          (牧師 三ヶ嶋 徹)

 

2019年2月27日「主イエスが驚き、感心した信仰に生きる」  ルカ7:1~10

 イエス様による病の癒しは、普通は病人に手で触れて癒されました。先週の聖書箇所の百人隊長の部下が病気で死にかかっていた場面での癒しは「ひと言おっしゃってください・・・」との百人隊長の言葉の通り言葉だけによる癒しです。軍人であるこの人は上官からの命令としての権威が、生活そのものでした。イエス様の「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」という御言葉の中に当時のイスラエルの信仰に対する批判が感じられます。その時代は律法学者たちが宗教指導者として民を導いていましたが、その中にあっては律法に権威があります。私たちは、イエス様が安息日に会堂で説教することで宣教をしたことを聖書の記事で知っていますが、その時、イエス様は「権威ある者・・・」としてお語りになられました。説教を聞いた人々は、そのイエス様の権威ある説教に驚いたり、感心して群集として従いました。「次はどんな驚きがあるだろう、次は何が見れるだろう」という期待です。しかし、この百人隊長はイエス様の権威を信じています。百人隊長のイエス様に対する信仰を言葉にするなら「このお方が一言、病気に命令を下せば病気は部下から去って行く」という確信です。それは、あたかも創世記の最初の天地創造の場面で神様が「光あれ」の御言葉でまず光を創造された。そして、その後も御言葉でひとつ一つを創造されました。イエス様もその創造と時に父なる神様と共におられました。その神の独子イエス様が人間となって降って下さり十字架の上でご自身の命を捧げてくださったことにより、人間の救い完成したのです。

                                                                    (近藤 幸一 牧師)

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