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2019年1月6日「希望の星は我らを導く」マタイ2:1~12

 本日お読みいただいたマタイの福音書は確かに、光と闇が交叉しているのが分かります。闇はこの世の王やその政治から出ているのでしょう。権力者の非人間的な行動から出てくるものです。彼らのそのような政治的な圧力が世界を暗く闇に変えてしまうのです。「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」この時代がどのような時代であったかを物語っています。『そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」』

しかしその闇の中に、神の救いの光が、射し込んでくるのです。学者達が東で見た星、それはこの救いの光を指し示しているのです。彼らはこの光に会うために千里を遠しとせずにやって来たのです。ここで「そのとき」と言う言葉がありますが、少し訳し方が弱い気がします。これはギリシャ語では「イドウー」と言う言葉で、英語ではbehold、つまり注意して見よと言う意味が込められているのです。人の心に思いも及ばない神の出来事が、神の介入がその時にあるということです。この学者達は選民イスラエルでもありません。異邦人です。今、異国の学者達がイスラエルに先だって、真の救いの光を仰ぐことになったのです。  ( 牧師   三ヶ嶋 徹)

 

2019年1月13日「現実の中に来られた神」ルカ3:15~22

 私たちは現実の中に生きています。理想を想い描くことはできても、理想通りにはいかない現実に苦しみます。日本赤十字社のキャッチフレーズに「人間を救うのは、人間だ」とあります。言い換えれば、生身の人間を救うのは、理想ではなく、生身の人間だと言えるでしょう。だからこそ神が生身の人間になってこの世に来られた。神が単に理想だけを語っても、罪の現実に苦しむ人は救えません。だからこそ神ご自身が天から降り、肉体を受けて人となられた。それがイエス・キリストです。イエスの教えは本当にすばらしい教えです。しかしその教えのとおりにはなかなか実践できないという現実もあります。そのため人はつい、聖書を理想のものとしてしまいます。しかしイエスは現実の中に来られたのです。

 イエスが洗礼を受けられた時、天から聖霊が降り、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声がありました。またイザヤは「見よ、わたしが選び、喜び迎えるものを」と語っています。神の御心に100%適い、神に喜び迎えられるとは、つまり全く罪がないということです。このような方は唯一イエスだけです。しかしこの方が、理想ではなく本物の愛を現実に実行されました。それが十字架です。これは神の御心に適うことでした。あの喜び迎えられたイエスが、あなたの身代わりに十字架において神に見捨てられ、裁きを受けられた。現実の中で苦しむあなたを救うためです。ですから理想通りにできないと自分を責める必要はありません。キリストはすべて背負い、赦してくださいました。むしろキリストが私のために何をしてくださったか、その現実を覚えましょう。そうすれば自然とそのようにしたいと願うのです。キリストの愛は理想ではなく現実なのです。 (牧師 栗﨑学)

 

2019年1月20日「主の恵みの年」ルカ4:16~32

 「いつものとおり」とあるように、イエス様はたえず安息日を守り、安息日を中心とした信仰生活を送っておられたことが分かります。今、イエス様が上げられた箇所はイザヤ書61章1~2節です。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

 私たちに主の霊が与えられている意味は、福音が貧しい人に宣べ伝えられ、囚人の解放や目の不自由な人の視力の回復、圧迫されている人を自由にする為なのです。ここで言う「貧しい」とは、ただ精神的に貧しいと言っているだけではなく、またただ貧乏な状態を指すのでもありません。「貧しい」とは、イエス・キリストなしの状態にある全ての人々のことを言っているのです。キリストを知らずに、つまりキリストなしに、貧しくあることは、絶望とつぶやきと貪欲を生み、またキリストなしに富んでいることは、傲慢と堕落とを生むのです。イザヤ書の61章で語っていることはバビロン補囚からの解放です。イスラエル人たちが喜びつつ故郷に変えることが出来る、まさしく<主の恵みの年>になるのです。

 『そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。』(4:21)。なぜ今日なのでしょうか。私たちがイエス・キリストを受け入れ、キリストが私たちの中に生きる事実以外に、真の御言葉の成就はありません。主の十字架が、我が内に生き、それが今日私が負うべき十字架とならない限りは、成就したと言うことは出来ません。私たちは「今日、今ここに」その成就者なる主イエス・キリストがおられるのを忘れては成りません。ここでイエス様の語られる内容の中心は、ご自身こそ旧約聖書の語るところの救いの約束の成就であると言うことです。

                                    (牧師 三ヶ嶋 徹)

 

2019年1月27日「主イエスに従う」ルカ5:1~11

 ルカによる福音書では、シモン・ペトロが主イエスの弟子に出来事なった記事の中に、主イエスの指示で網を入れると大漁になったことが記されています。この大漁の出来事は弟子たちが故郷に帰り漁をしている時に復活の主イエスが現れた時にも起こりました。この時、シモン・ペトロは自分が主イエスに従うようになった日のことを、「自分がエス様に従うことになった日も同じように大漁になった」と思い出したでしょう。私たちも、それぞれ主イエスに従うようになった日があり、その場面を持っています。シモン・ペトロが「主よ。わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と言っていますが、これは悔い改めの言葉です。私たちもまた、主イエスに従う時に悔い改めが起こり、自らの罪を示されました。悔い改めとは、この聖なる主イエスとの出会いの中で起こるものです。決して自分の心の中をのぞき込んで起きることではありません。自分がキリスト者として生きるようになった日のこと。それは決して忘れることに出来ない決定的な出来事です。なぜなら主イエスによって救われたからです。永遠の命が与えられたからです。その時のことを忘れることなく生涯、主イエスを伝えることに情熱を燃やして行きたいのです。                                         (牧師 近藤 幸一)

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