2018年10月7日   「互いに平和に過ごしなさい」 マルコ9:38~50

 イエス様は、小さい者にたいするクリスチャンの責任がどんなに大きいかを教えられました。一般の社会では小さい者、つまり価値がない者とか弱いと見なされている人は簡単に切り捨てられてしまいます。これはある意味、虚栄と党派心で汚れたこの世から見れば当然の法則と言えるでしょう。キリストの弟子たちでさえ、彼らのこれまでの言動から推測して、そのような考え、価値観に毒されていた部分もあったと言えます。 弟子たちにとって取るに足りないと思える者であっても、主の御目にはこの世界のどんな英雄や賢者よりも尊い存在なのです。しかし一般社会の価値観や競争心が忍び込んで来ると、弱く小さな者は顧みられなくなり、その人の心が傷ついても、躓き倒れても誰一人として気にもかけなくなるのです。そうした愛の配慮の欠如は、キリスト者にとってあっても良いのだろうか。いや、断じてあってはならないのです。ヤコブの手紙においては、世にあって富める者たちへの警告がなされています。自分の周りの者たちへの配慮の無さから、彼らに対する裁きが語られています。「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」(ヤコブ4:17)なのです。弱く小さな者を限りなく大切にし、慈しむ心から、本当に人間らしい平和な世界が生まれてくるのではないでしょうか。躓きとなるものは、どんなものでも大胆に徹底的に取り除かれなければならないという比喩を、主はどんなことをしてでも躓きを避けて、神の国に入るべきであると言われているのです。しかし私たちはこれを単に禁欲主義的に捉えてはならないと思います。そこには、周囲の人々に対する慈しみと弱き小さな者に対する愛の配慮が欠けているならば、ただの独りよがりに終わってしまうからです。     牧師  三ヶ嶋 徹

 

 

2018年10月14日   「子どものように」 マルコ10:13~16 

 大人になると私たちは子どもらしさを卒業していく、そんなイメージがあるかもしれません。しかしイエス様は、信仰においては子どものようにあることを求められました。さて、「叱る」と「怒る」の言葉の違いを考えてみましょう。「叱る」は、相手を諭すイメージ、「怒る」は、感情的なイメージです。大人としては「怒る」よりも「叱る」の方が正しいと言われる。イエス様は「叱る」で、弟子達の方が「怒る」イメージがあります。しかし興味深いことに本日の個所では逆なのです。弟子達は子どもを連れて来た人々を「叱った」のに対し、イエス様は弟子達に「憤った」のです。この言葉がイエス様に用いられているのはここだけです。イエス様は感情むき出しで怒りをあらわにされた。一体何をそんなにむきになっておられるのか?それは子どものことだからです。イエス様はそれくらいに子どもを愛しておられる。なぜなら神の国はこのような者たちのものだから。弟子達はしばしば、誰が一番偉いかを議論し合っています。おそらくその話題になると盛り上がっていたのでしょう。私たちはどうでしょうか?「あの人は立派だ」、あるいは「自分は何もできない」という話題。大人はやはり「誰が立派か」が関心事なのです。そのような視点から見れば、子どもは最も低く見られる。しかし感情的に憤ったのはイエス様でした。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」この言葉は大人の傲慢さを砕きます。子ども達はただイエス様の恵みを求めて来たのです。私達は意図せずとも、あるいは大人の様々な事情で、子ども達の信仰を妨げてはいないだろうか。イエス様は子どもが大好き。私達教会は、イエス様の愛する子ども達をイエス様のところに導く尊い責任があります。「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。私達は子どもから学ばなければなりません。主の目には、誰が一番偉いかなんてどうでもいい。誰が立派かなんてどうでもいい。ただ主の恵みを求め、主にのみより頼む子どものような信仰。私達は神の目に神の子どもです。恵みを求めて礼拝に集う者を、主は抱き上げ、手を置いて祝福してくださるのです。神の恵みをいっぱいに受けて成長する神の子どもでありたいと願います。     牧師  栗﨑 学

 

 

2018年10月21日   「天に富を積む人生を生きる」 マルコ10:17~31 

 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。実はこの人は、永遠の命を得るために、何かを手に入れることではなく、つまり「獲得」することではなく「捨てる」事が必要だったのです。手に入れよう、得ようとすることばかりに気を取られていると、逆に私たちは、大切なものを見失ってしまうのです。イエス様があの十字架の上で、ご自分の命を捨てることによって、私たちの命を贖ってくださったように、そのことを知る者だけが、喜んで捨てることが出来、この命の宝に与ることが出来るのです。

 「捨てる」ということは、神を中心に考えなければいけませんね。案外、物質的に捨てているようで、精神的に奪い取っているところってないでしょうか。どこかで見栄や、形式によって成されている愛って、ないでしょうか。人からの誉れってないでしょうか。ここでイエス様はこの人を批判的に思いでこのように言われたのではなかったのです。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。」のです。

                                                   牧師 三ヶ嶋 徹

 

2018年10月28日   「神の国での報酬」 マタイ20:1~16 

 このぶどう園のたとえ話は、とても分かり易い物語です。ここに登場するぶどう園の主人は、いささか常識に反する人です。先ず、あまりにも無計画であります。ぶどう園を営むような人であるならば、綿密な計画を立てるはずです。しかし、何度も市場に手出て行っては、労働者を集め直して来なければならないのは、あまりにも愚かであります。まら、この主人は、文句を言った労働者に対して、「不正はしていない」と答えています。しかし、ここで文句を言っている人は、働いた分に応じて報いがあるべきだと言っているのです。それが世間の常識です。この主人のしていることは、正しいとはとても思えないのです。15節の「ねたましい」と訳されている言葉は、原文では「目が悪い」と言う言葉です。あなたの目は悪いのか、とイエスさまは言われます。見るべきものが良くみえなくなうのです。それが、人生全体を、真っ暗にするのです。この主人は、もしかしたら最初連れて行った人数で、労働力は足りていたのかも知れません。しかし、その心にひっかかるものがありました。まだ市場に立ちん棒をしている人が、いたということです。イエスさまはまた市場に行き、助けに行きました。とにかく大切なことは、このたとえ話の中のどこに自分ガいるかと言うことです。神と自分との切実な物語として読み解くことです。私どものような者さえ、ぶどう園の中へ迎え入れられていることを感謝すると共に、神の愛が、一人でも多くの人に伝えることを、私たちの願いとしたいと思います。       廣石 巍  兄

近畿福音ルーテル津教会
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