「イエス・キリストの誕生」        2017.1.1   ヨハネ1:1~14

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ1:1)。イエス様の地上のご生涯を語る前に、著者ヨハネは主の神的起源に目を向けています。「初めに、神は天地を創造された」(創世記1:1)。あらゆる時間と空間を超越した永遠の初めを意味しています。そして、イエス様が神であること、永遠の神のことばであることが提示されています。神の「言」であるイエス様は、創造の初めから存在し、創造の御業の仲介者として存在していました。この世界、この宇宙に存在する全てのものを造られたのみならず、ご自身の内にいのちを持っておられました。さらにこのいのちは人の光でした。「いのち」と「光」とは、この福音書全体に渡って見られる重要な概念で、何度も繰り返し強調されています。この光が罪と不信の闇の中で輝いているのです。闇は光と対照されていますが、それはただ光が存在しないという以上に、神のことばであるイエス様に対する積極的拒否と敵意のあらわれをしめすものと言えるでしょう。  

「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」(1:6,7)。現代のキリスト者もヨハネのようにイエス様の証人と言えるでしょう。私たちも生活を通して、主を指し示し、いのちの光を反射させ、このお方を浮き彫りにして映し出さなければならないのです。                        牧師 三ヶ嶋徹

「主の愛は永遠に」        2017.1.8   ルカ2:21~24  

 「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」。「イエス」という名前は、神様ご自身が天使を通してつけた名前で、そこには親の想いではなく、神様のご意志があります。この「イエス」という名前は「神は救い」という意味があります。私たちは、決してこの名前を忘れてはなりません。そうでないと私たちの信仰は抽象的になります。使徒言行録には、イエスの名によって、癒しがなされ、洗礼がほどこされ、この名以外に救いうる名は、天下に一つもないと語られました。漠然とした神様では、力にもなりません。川に溺れた人が、近くにいる友人の名前を呼ぶように、赤ちゃんがお腹を空かせて、一生懸命泣いてお母さんを呼ぶように、私たちも具体的に、力強く、一生懸命に主の名を、イエス様の御名を呼ぼうではありませんか。祈りの最後に、「イエス・キリストの御名によって」というのは、ただ祈りの終わりの合図ではないのです。本日の教会讃美歌336番には『主イエスの御名こそ、常世のひかり、老い人、若人、おのこおみなも、等しく救いに入らしめたもう。イエスこそまたなき世の救い主。イエスきみ、我主を愛す。ただ主の御名にて、我救われぬ』と讃美します。また、主ご自身もマタイ18章20節で語っておられます。「二人または、三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にあるのである」。現にその御名が呼ばれるところに、イエス・キリストご自身が共におられ、事を成してくださるのです。

                                    牧師 三ヶ嶋徹

「世界の救い主キリスト」        2017.1.15.   マタイ2:1~12

 

 この新しい光を見、神の御業がなされるとき、人は驚くほどの努力を成し遂げます。占星術の学者達は遠い道のりを苦労してエルサレムにやってきました。神の恵みとは、人間の努力はいらないことを意味するのではありません。かえって、この驚くほどの新しい恵みの光に触れて、私たちは弱い足を踏みしめて、険しい山や岩をよじ登り、多くの谷や河を乗り越えて、救い主のもとに馳せ参じるのです。あのパウロのように、裁判にかけられ、鞭打たれ、投獄されても、恵みに動かされた人は決して怠けてはいませんし、じっとしてもいません。どんな道もこの恵みが導かないはずはないと信じ、勇気を持って福音を携え出て行くのです。私たちにとって、しばしば小さな障害が信仰の歩みの弁解になっていることが多い者です。神の恵みは、勝手な弁解を許されるでしょうか。反対にどんな道も切り開いて、弱りやすい者を救い主に導くのです。しかし、決して学者達の努力によって救い主を見つけたのではありません。彼らの努力はエルサレムのヘロデ王の宮殿まで導きましたが、そのところで道は途絶えたような形になりました。そこで道を切り開くのは、聖書のみ言葉です。信じて従う者には、御言葉だけでなく、地上のしるしが伴うのです。聖書の御言葉を学び、研究していて知っていても、信じて従うことをしなかったために、ヘロデ王たちは救い主へと導かれませんでした。聖書の御言葉はいくら知っていても、信じて従わない限り光を放って来ません。信仰者があらゆる努力をして救いを作り出すのではないのです。救い主は既にお生まれになって、信じる者をお招きになります。私たちはそのお招きに応えて、あらゆる努力を惜しむことなく、招きたもう主の御元に馳せ参じるのです。

                                牧師 三ヶ嶋徹

「主のみ業バプテスマ」  2017.1.22     マタイ3:13~17

                            

 本日の聖書には、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになったことが記されています。ヨハネからの洗礼は、罪を悔い改めて、神様の赦しを受けるためのものでしたから、罪のない神のひとり子であるイエス様が、それをお受けになる必要はなかったはずです。しかしイエス様は私たちを罪の力から救い出すために、私たちと同じ罪に汚れた人間の立場に身を置かれて、洗礼をお受けになったのです。また「正しいことを全て行うのは、我々にふさわしいこと」(マタイ3:15)と語っておられます。また、マルコの福音書の最後に語られているように「信じて洗礼を受ける者は救われる」(マルコ16:16)のです。洗礼はキリスト教信者になるための、たんなる儀式や悔い改めのしるしではなく、何よりも、私たちの罪を赦すために十字架におかかりになったイエス・キリストと私たちとが一つに結ばれ、共に歩み生きるということのしるしなのです。イエス様が洗礼をお受けになって、自ら上がられると「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。とあります。イエス様が神の子であると言うことは、神様ご自身がはっきりと確認されたのです。神様ご自身が私たちにお示しにならない限り、人間の知性によって、そのことを理解することは出来ません。『ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。』(Ⅰコリント12:3) 牧師 三ヶ嶋徹

「悔い改めよ、天の国は近づいたから」2017.1.29  マタイ4:12~17                              

 

 洗礼者ヨハネが捕えられ、イエスさまはガリラヤ地方に退き、カファルナウムを拠点として宣教を開始されました。それは暗闇、死の陰の地に光が射し込むというイザヤの預言の成就でした。ガリラヤは人種も文化も宗教も異邦人と混じり合い、「異邦人のガリラヤ」として侮蔑される辺境の地であり、ヨハネを捕えた領主ヘロデの領地でした。主の宣教の言葉は、ヨハネ同様「悔い改めよ。天の国は近づいた」です。原文には「から」という言葉があり、「近づいた」とは完了形、「すぐそこに天の国が来て、もう既にあるから悔い改めよ」ということです。「悔い改め」とは、単に過ちを悔いて反省することではなく、全人格的にすっかり方向転換すること、神さまのもとに立ち返るので、自己中心から御心に適うよう心を改めることです。ヨハネは、イエスさまが来られることを指して、すぐそこに天の国が来ているのだから悔い改めよ、心改め、生き方を変えよと説いたのです。人間誰しも己は正しいと感じ、自己弁護、自己正当化するものです。何にもなくて悔い改めることは出来ません。しかし天の国とは、神さまのご支配です。本当に御前に立ち、ご臨在、御力に触れたなら、到底自己正当化など出来ません。己の罪深さを知り、御前にひれ伏し、悔い改めるしかないのです。

日本もクリスチャンは少なく、政情も先行き不安です。まさに異邦人の日本、暗闇、死の陰の地です。しかし、この地に光は差し込み、偉大な光を見るのです。主において天の御国が到来したのです。カファルナウムは数多くの主の奇跡を見ながら悔い改めず、陰府にまで落とされると言われました。

私たちは悔い改めずにいられますか。宣教せずにいられますか。          

                          北山 琢伝道実習生

近畿福音ルーテル津教会
​ 牧師:三ヶ嶋 徹

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