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2018年9月2日   「人から出てくるもの」 マルコ7:1~23

 ファリサイ派の人たちは、外から入るものに細心の注意を払っていました。それによって自分が穢れると考えていたからであす。そこからは、他の人を思いやるとか、他の人の痛みに共感いるというようなものは全く出てきません。ただ、「汚れたもの」とそうでないものという選別がなされ、「汚れたもの」とみなされるものは排除しようという意識が働きます。しかし、主イエスさまは、人の外から入るものが人を汚すのではなく人の中から出て来るものが人を汚すのであると語っておられます。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て人を汚すのである」(20~23節)。このリストのひとつひとつを見ていくとき、私は恐れとおののきを覚えます。この主イエスさまの厳しい言葉の前に、自分の罪の姿をさらけだすしかできません。自分の罪を認めて、ただ、「主よ、わたしを憐れんでください」と祈ることしかできません。内にある汚れた罪を隠して、外面をとり繕おうとするような私のところに、主イエスさまはおいでくださいました。そして、「あなたの汚れに満ちた罪のためにわたしは来た。その罪を赦すためにわたしは十字架を負ったのだ」と語りかけてくださいました。あのファリサイ派の人たちは、自分の内にあるものを隠して、他を批判し、裁き、差別し、他人も自分をも縛りつけるという不自由さの中に生きていたましたが、主イエスさまを迎え入れる者は、ほんとうの自由の中を生きることができるのです。    牧師  屼ノ下 照光

 

 

2018年9月9日  「その言葉で十分である」 マルコ7:24~30

 預言者エゼキエルの言うとおりティルス町はその傲慢さのために廃墟となります。(エゼキエル27章)長い時が経過し、イエス様は、復興したティルスの町で心静かにして疲れを癒すためにティルスの町に来られます。しかし、ガリラヤから約50キロメートル離れたこの町に、もう噂が広がっていて悪霊に取り付かれている幼い娘を持つ女がイエス様の足元にひれ伏し、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだのです。イエス様は「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と。子供たちとは、ユダヤ人のこと、子犬とは異邦人の幼い娘、パンとは救い(癒し)のこと。つまり、異邦人の救いの時はまだ来ていない、と言われたのです。それでも女は答えます。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」この言葉から、女はイエス・キリストというお方はイスラエルの牧者という枠を超えた救い主であると認識しました。当時のユダヤ人は、救い主が来たならローマの支配から解放し異邦人を奴隷として支配するようになると考えていました。この女は異邦人を奴隷にする王ではなく異邦人にも恵みをくださる全世界の王であることを認めているのです。イエス様はこの言葉に感動いたします。そして「それほど言うならよろしい」と言われます。口語訳聖書では「その言葉で十分である」と訳されています。女は神様の御心を言い当てました。 私たちも、神様の御心を知りましょう。イエス様が十字架の上で死んでくださったことにより自分の罪が赦され、今、永遠の命が与えられています。これこそ神の御心です。               牧師  近藤 幸一

 

 

2018年9月16日    「イエス・キリストの愛の癒し」   マルコ7:31~37

 この体の不自由な人は、耳も聞こえないし、話すことも出来ません。おそらく生まれつき人の言葉を聞いたことがないので、話すことが出来ないのでしょうか。とすれば、この人は、自分の意志を人に伝えることが出来ないはずです。そこで他の人が代わってイエス様にお願いしたと言うことになったのでしょう。

 どんなに困っている時も、助け支える「弁護者や介護者」がいるなら、彼の耳となり、口となってくれる人がいるなら安心でしょう。世の中はこのように支え合いで成り立っているのです。さて、聴力と会話力の二つは大切な伝達手段です。今日のように手話があれば良かったですが、当時聴力と会話力の二つがなければ交わりが出来ません。しかし、そのような二重苦の人にも感覚はありますし、普通ハンディキャップのある人は、感覚は一般の人よりも優れているものです。ですから人々はイエス様に対して「その上に手を置いてくださるように」とお願いしたのです。つまり今日のスキンシップですね。

私たちはたとえある部分が麻痺していても、必ず別の伝達手段があるはずです。神様はそう言う場合、他の部分を一層優れたものにして、劣った部分を補えるようにしてくださいました。劣っている点があることによって、いっそう働く部分が出来てくるのです。どんな人にも、私たちを愛してくださるイエス様との交わる道を閉ざしてしまうような障害はないはずです。

 さて、ここでイエス様は、この人にふさわしいように、決して言葉だけではなく、「そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。」とあります。このようにイエス様はいつも、その人にふさわしい手段で、弱い者に近づかれます。しかもイエス様は、まずこの人を群衆の中から連れだし、一対一で対面しました。イエス様は決してどこでも集団的なかたちで癒しを行うことはなさいませんでした。生ける神様との交わりはいつでも一対一です。神様は大衆的にはお語りになりません。ひとりのアブラハムに、ひとりのモーセ、ひとりのエリヤに語り、ひとりのパウロに語られたように、今あなたに語られるのです。     牧師  三ヶ嶋 徹

 

 

2018年9月23日   「この時代の主への信仰告白」  マルコ8:27~38

 「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」。もちろん、イエス様は世の評価を気にしておられるのではありません。一人々の信仰の決断を問う前提として、世の批評、評価とは全く違うということ、つまり人は、世はそういうけれども「あなたの目の前にいるこの私は誰なのか」という問題です。新約聖書の時代から数多くのイエス伝が出されました。そして人の書くイエス伝は、その人その人の人間観、信仰観、人生観が言い表されているだけなのです。もっと言うと、イエス様がどんな教えをされたかとか以上に、主イエスそのものの存在が問題なのです。神の一人子が、神ご自身が人として世においでくださった、永遠なるお方が、限りある人間の世界に介入してくださった、ひとりの幼子として、飼い葉桶をゆりかごとしてくださった。ひとりの人として、人の味わう苦しみも悲しみも経験してくださった。十字架において、ただ一人何もおっしゃらずに、人類の救済の御業を達成してくださった。イエス様が私たちに聞かれる「誰か」は、同時に私たちは「誰か」を問うているのです。「あなたは一体何者か」、イエス様はそのように問うているのです。    牧師  三ヶ嶋 徹

 

 

2018年9月30日    「全ての人に仕える者」 マルコ9:30~37

 イエス様の通られる十字架の道は、人々には理解の出来ない道です。人々の救いのために、ご自身の命をささげる道です。しかし、人々はこの世の王として、力を持って自分たちを解放してくれる王を求め、自分たちを病から解放してくれる最高の医者を求めていたのです。けれど誤解をしていたのは民衆だけではありませんでした。弟子たちも「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。」つまり彼らも理解していなかったのです。十字架は献身のゆえの勝利です。自己を無にして初めてそこに本当の愛が明らかにされるのです。この真理は、イエス様が復活して後、信仰によって初めて理解できる真理なのです。今は分からなくても、やがて復活して後、それに気づくように、あらかじめ告げられたのです。死と苦難の経験を経ずして、どうしてこの深い真理が分かるのでしょうか。ところが弟子たちは道々誰が一番偉いかを議論していたのです。身を低くして、十字架にかかられるイエス様ご自身を示してくださったばかりでした。これはなんと無理解な弟子たちの姿であり、私たちの姿でもあるのです。

                                    牧師  三ヶ嶋 徹

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