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2018年8月5日    「真の神の家族とは」    マルコ6:1~6b 

 ナザレの人々は躓きを覚えたのです。つまりイエス様の低い姿が躓きとなったのです。イエス様には労働者、大工ということ意外に、何の称号も肩書きもありませんでした。普通人間は、肩書きを尊び、学歴に感心をします。そして自分よりも他者が高いと劣等感を持ち、逆に低いと優越感を持ち、あざ笑い、馬鹿にするのです。会堂長ヤイロの家の人々も主をあざ笑ったのです。さらにまたイエス様が十字架におかかりになった時も、人々はあざ笑ったのです。「他人を救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」(マタイ27:42)しかし、このイエス様の低さこそ、神の謙遜であり、真実の愛の姿に他なりません。信仰がなければ、あざ笑われるイエス様の真実の愛の姿は決して見えません。ナザレの村の人々もそうだったのです。内心不審を覚え、あざ笑ったのです。

 しかしエゼキエルは語ります。「彼らを恐れてはならない。またその言葉を恐れてはならない。彼らが反逆の家だからといって、彼らの言葉を恐れ、彼らの前にたじろいではならない。たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。」(エゼキエル2:6,7)。

「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」彼らナザレの人々は不信仰のゆえに、せっかくイエス様がそこに来ておられるのに、神様の栄光を拝することが出来なかったのです。

 前章で主は12年間難病に苦しんでいた女性に対して「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言われました。私は前回この女性の「この方の服にでも触れれば癒していただける」と言う信仰はどこか迷信的な信仰のように思いませんかと、お話しましたが、大勢押し寄せて来る群衆の中にあって、彼女同様大勢の人たちが主の服どころか、体までもベタベタ触っていたに違いありません。なのにイエス様は「わたしの服に触れたのはだれか」とおっしゃいました。何十、何百もの人々が主の体にも触れていたでしょう。けれど、イエス様のお力はこのちょっと迷信めいた女性のみに注がれたのです。「この信仰」「あなたの信仰」、まさに「私の信仰」で自分を救うことは出来ませんが、信仰によって神の栄光を拝することが出来るようにしてくださったのは、確かなことでしょう。故に私たちは主イエス様から癒されて、救われてここにいるのです。これは間違いのない事実です。疑い深く、迷信にとらわれ、不真実な者をも顧みてくださった主の愛に応えて生きて行こうではありませんか。         牧師  三ヶ嶋 徹

 

2018年8月12日    「使徒たちの熱意」    マルコ6:6b~13

 イエス様は十二人を呼び出しました。彼らは教え受けたことを教え、汚れた霊を追いだすことも、病気で苦しむ人を癒すこともすべて、イエス様がなされたとおりに行うことができました。私たちも、同様に遣わされています。まだイエス様を知らない方々に、福音をお伝えできます。けれども、「悔い改めさせるために宣教した」という使徒たちのように、人の心を入れ換えさせたり、ざんげをさせたりすることができるのでしょうか。私たち自身の愚かさをわきに置いて、人の過ちを正し福音をお伝えするというのは、おこがましく差し出がましいことのように感じます。しり込みしそうです。それでも、私たちにはできるのです。と言いますのは、人を悔い改めへと導くのは、私たちではなく、ともにおられる神様だからです。罪びとの心の痛みを御存知なのは主御一人です。イエス様がお一人お一人を正しく導き、悔い改めにふさわしい信仰を結ばせてくださいます。 『ニケヤ信条』に、「唯一の、聖なる、公同の、使徒的な教会を、私は信じます」とあります。使徒的な教会とは、使徒より伝えられたイエス様の福音を所持し、派遣されている教会のことです。ですから教会には、御国の門を開く鍵があります。それが、天の扉を解く「ゆるし」なのです。私たちもあの弟子たちのように神様に受け入れられています。過去に犯したあらゆる過ちはゆるされ、力づけられ、用いられています。使徒たちの伝道で築かれた教会は、御言葉と霊とで燃えていました。鞭打たれるようなことがあっても、イエス様の名のために辱めを受けるほどの者にされたと言って、喜んで伝道を続けました(使徒5:41)。私たちにも、その熱意が受け継がれています。                                                         副牧師  田村 真

2018年8月19日   「主の元にある養いと安らぎ」     マルコ6:30~44

 彼らは静けさを求めて、舟に乗って寂しいところに行きましたが、「ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。」とあります。何と人々の求めの激しいことかと、思わせられます。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」今や休養の場も、また人々の求めの場に早変わりし、休むことが出来ませんでした。しかし主は「私たちの休養の時を邪魔するな」とは言われませんでした。それよりも彼らの「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれた」とあります。今、主は、飼い主のいない羊のような姿を見てあわれに思い、彼らを教えられました。まずは御言葉を持って彼らを養ってくださいました。熱く主が語られる言葉に、時間の経過も忘れるほど群衆は聞き入っていたのです。群衆の食事について弟子たちが気づきました。イエス様は弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われます。彼らは無理です。不可能ですというのです。私たちは何かをする時に、いつも周りの環境と自分の能力を問題にします。そして諦めるのです。しかし事を成すとき、主が成してくださることを私たちは忘れていないでしょうか。僅かなパンと魚を用いて、多くの人を養ってくださるイエス様の御業を忘れていないでしょうか          牧師  三ヶ嶋 徹


 

2018年8月26日  「安心しなさい、わたしだ」   マルコ6:45~52

 私たちは、何て事の無い生活の中に、また何か期待して始めた出来事の中でさえ、ふとした瞬間、自分の内側や外側から来る不安や恐れに出会います。そんな私たちにイエスさまの方から近づき、御言葉を語りかけ、転覆しそうな船に自ら乗り込んで下さり、風をも静めて下さいます。しかしそんな経験をしても尚、私たちはなかなか十分に理解する事が出来ません。これまでも何度も御言葉によって助けられ、励まされ、慰められ、救いの確信をもいただいてきたにも関わらず、尚も主が主であることをいとも簡単に忘れ、思い悩み不安を覚え、恐れ怯えるのです。それはある意味、期待外れ。何も分かっていない。どうしようもない情けない姿なのかもしれません。けれども、そんな私たちを主なる神さまは「何もわかっていないっ」と呆れておられるのではありません。何も分かっていないからこそ、何度も教えてくださるのです。何も分かっていないからこそ、何度だって近づいてきてくださいます。何も分かっていないからこそ「安心しなさい。私だ。恐れる必要はない」と何度も教えてくださるのです。それは愛する一人一人が、まことに主が主であられるという事を確かに知るようになる為です。もしかしたら、今はまだ神さまの導きや助けが既にある事を、十分に感じてはいないかもしれません。けれども、その所でただ自分自身の無力を認め、全てを導き全てを知っていて下さる主に信頼しその所に留まるなら、いずれ必ず自分が受けてきたものの大きさ、素晴らしさ、恵みが既に注がれていた事をハッキリと教えられる日が来るのではないでしょうか。なぜなら私たちの日々の人生の中に、主は生きて働いて下さっているからです。

                                伝道師  栗﨑 かおり

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