あなたの教会
神様はあなたを愛しておられます。
どんな時も共にいてくださいます。
今日、神様の愛に出会いませんか?
ようこそ!あなたは
互いに重荷を担い合うこと
「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」
(ガラテヤの信徒への手紙6章2節)
使徒パウロは、ガラテヤの信徒への手紙の中で、互いの重荷を負い合うことが、キ
リストの律法を全うすることになると、語っています。しかし、正直なところ、お互
いに、重荷を負うと言うことは、出来れば避けたいという気持ちではないでしょうか。
以前ある本で読んだのですが、二人の人が猛吹雪の中を歩いていました。二人は互
いに声を掛け合いながら、猛吹雪に飛ばされないように支え合いながら歩いて行きま
した。そうするとその途中、行き倒れになっている人に出会いました。まだ息がある。
どうしようかということになったのですが、ひとりの人は「これに関わっていたら、
共倒れになってしまうから、可哀そうだけど、見ないことにして先を急ごう」と言い
ました。もうひとりの人は「何とか二人で担いで行こう」と提案しました。「そりゃ気
持ちは分かるけど、そんなことをしていたら、私たち自身が危ないよ。冷たいようだ
けど私は先に行かしてもらうよ」と言って、その人は、もうひとりの人と行き倒れの
人を残して先に吹雪の中を消えて行きました。
残ったほうの人は、倒れている人を背負って、よろめきながらも吹雪の中を歩きま
した。どれぐらい歩いたでしょうか。しばらく行くと、道の真中にまた誰かが倒れて
いました。雪をかき分けるようにその人を見ると、驚いたことに「先に行くよ」と言
って分かれて行ったあの人でした。どんなに揺さぶってもその人は、もう動くことは
ありませんでした。
考えて見ると、ひとりでも大変なのに、行き倒れの人を背負って、もっと難儀をす
るはずなのに、実はその人を背負うことで汗をかくほどに熱くなり、そして互いの体
温で温め合っていたことになり、それで互いに助かったのだと言うことが分かったの
す。それは結局助けてあげたつもりが、実は自分を田受ける結果になっていたという
ことなのです。
「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすること
になるのです。」と聖書は語ります。それがキリストの律法と言われるのは、キリスト
ご自身が先ず私たちの重荷を一身に背負って十字架に死んでくださった、そのおかげ
で身軽にしていただいた私たちです。これからは少しでも誰かの重荷を背負って行こ
うということが、キリスト者である私たちの生き方ではないでしょうか。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」 (マタイによる福音書11章28~30節)