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「神さまからのコーリング」

 

 あるサラリーマンが、自分の人生訓に、「受けて立つのが横綱相撲」という言葉を、部屋の壁に貼り、毎日それを復唱しては会社へ出かけるようにしていたそうです。というのは、横綱と言うのは、相手がどのような苦手であっても、また、たとえ相手がどんな汚い手を使ってきたとしても、また、初顔合わせで、相手の手の内が読めなくても、どーんと胸で受け止めて立つものです(一般的にそう思われています)。決して、身をかわしたり、ましてや汚い手を使わないのが横綱であり、それが横綱の風格となるのでしょう。まあ、最近の横綱は「猫だまし」という手を使って問題にもなりましたが。

それはともかく、そんな横綱のように、いつ上役から、「きみ、あれをやってくれ」「どこどこへ行ってくれ」と言われても、それが行きたくない所でも、会いたくない相手でも、「はい、かしこまりました」と、返事ができ、また仕事に取り組むことが出来るようになりたいと願っていたようです。

 

 私事で恐縮ですが、わたしは牧師になる前に、10年ほどサラリーマンをしていた時期があります。部署の配置転換から、転勤まで、それは会社の意のまま、指示のままと言えば、ある意味そうと言えるでしょう。

 そのうち彼は、「職業」という言葉は、英語では「コーリング」という言葉が使われていることを知りました。彼は、このことから、職業と言うのは、お呼びがかかることなのだと思いました。「転勤、よし来た、お呼びがかかった。行こうじゃないか」という具合です。転勤ならまだしも、左遷となると穏やかではありません。しかし、「まあ、新しい人生の転機としてのお呼びがかかった、と思えば良いじゃないか」というわけです。実に、楽天的なサラリーマンのようにも感じます。しかし現実は厳しく、私自身の経験からしても、多くの葛藤を抱えながらも、従って行くことになるのは間違いの無いことですね。

 

 さて、「コーリング」とは、神さまが私たちを選び、お呼びになり、イエス・キリストに従って来るようにと、お招きくださっているという意味にも使われます。

 

 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネによる福音書15章16節)

 

 どうか、あなたの人生、いつも思うように行くとは限らない日々の中であっても、あなたを呼び、あなたを招いておられる神さまが、あなたと共におられます。それがどんな悪条件でのもとにあろうと、祝福に変えようとされる神さまの招きです。

 私たちも、救い主イエス・キリストによって、自分自身の人生を「横綱相撲」ではありませんが、神さまの招きに従えば、間違いの無い人生を歩むことが出来ます。ぜひこの神様からの「コーリング」を受けてみませんか。

 

                        牧師  三ヶ嶋 徹

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