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「キリストの全き癒し」 マルコ3:1~12  三ヶ嶋徹牧師

 先週はイエス様の弟子たちが麦の穂を摘み始めたことをファリサイ派の人々が指摘したこと、また本日のテキストにあるように、片手の萎えた人を訴える口実を掴む為に、注目していたこともそうでした。律法の精神を汲み取らず、ただ「あれをしてはいけない。これをしてはいけない。」というようなただ人を縛り付けるような否定だけの禁止律法を、自分たちで作り上げてしまったのです。しかし、本来この安息日の掟の意味は、申命記にあるように「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、~あなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」と、出エジプト記「主は安息日を祝福して聖別されたのである。」とある奴隷解放と、またそのことによって人を祝福すると言う積極的な意味がありました。主の言う「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」には、安息日の積極的意味を捉えているのであれば、自ずから、今、目の前にいる片手の萎えた人に対するイエス様のお心は理解できたはずです。主はこの安息日に、この人に豊かな恵みと祝福を注がんとされたのです。安息日に限らず、善と悪、命を救うことと殺すことは、当然ながら答えは分かっているのです。にも関わらず、主の癒しの後にファリサイ派の人々は、イエス様を殺す計画を立てるのです。どこまでも醜く救いようのない人の罪です。しかしこれは他人事ではなく、今日の私たちの安息日の礼拝においても、主の御心を知らず、他者を赦さず、身勝手な自己主張を貫く私たちの身も心も癒していただかなければならないのではないでしょうか。(7月1日)

 

「庶民のイエス」 マルコ3:20~30  田村 真 副牧師

 ナザレ出身のイエス様には、四人の弟たちと妹たちがいました。大工として、母と家族の生活を支えていた時期もありました。そんな兄を取り押さえに来たというのですから、ただ事ではありません。イエス様は、「敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけ」(マルコ6:4)と御語りになりましたが、同じ屋根で暮らしてきた家族の者から信用されていません。イエス様の悪口が広まる原因をつくったのは、ファリサイ人や律法学者といった指導者たちでした。彼らの目的は、イエス様の業が悪霊によるもの、つまり魔術かなにかであり、信用するに値しないと人々に思わせることでした。イエス様の評判をおとしめることで名誉を回復させたかったのです。じつにイエス様の伝道活動は、戦いの連続でした。対峙する指導者たち、庶民の間にはびこる病や身体の障害、さらに悪霊による弊害がありました。そこでイエス様は、御言葉を教え、病を癒し、悪霊を追放しましたが、あまりにも強烈でした。ある者は「この人はダビデの子ではないだろうか」(マタイ12:23)と、つぶやいたのです。このうわさが広まり、ヘロデ家の者たちをも敵に回しました。ローマ人の支配下にありながら、国全体の統治を認められていた彼らによって、イエス様はローマ人に対する武力政変の首謀者のように扱われてしまいます。イエス様の苦しみは、私たちの抱えている苦しみをも凌駕しています。なぜならば、私たちの罪と罰を、イエス様が一身にお受けになったからです。家族の問題も、自分を陥れようとする敵も、悲しみの過去もすべて、イエス様が引き受けてくださいました。ですから、私たちの心はイエス様を王として迎えることができるのです。        (7月8日)

 

「み言葉の種を蒔く幸い」 マルコ4:26~34 牧師 三ヶ嶋徹

 ここにはからし種のたとえが語られています。このマルコ4章は、種のたとえが三つ取り上げられています。最初は種が蒔かれる土地に目が注がれ、神のみ言葉を受け入れる態度の違いが語られました。次は、種自身の成長の力、命そのもの力強さ、それは成長させてくださる神の不思議なみ業が説かれていました。今度はからし種と言う、まことに小さなものが、一度地に蒔かれると、地上のどんな野菜よりも大きな木に成長することが語られています。ここで問題なのは、初めの小ささと終わりの大きさです。途中は問題ではありません。ユダヤのからし種は本当に小さい物ですが、一度地に蒔かれると、どんな野菜よりも大きく、鳥が宿るほどに成長するのです。聖書では小さいと言うことが問題にはなりません。普通小さいことは、劣等感の原因になります。「こんな小さい体で」とか、「こんな僅かなお弁当で」とか、「こんな小さな能力で何が出来るか」です。ダビデとゴリアテの戦いもそうですし、2匹の魚と5つのパンの奇跡も然り。まさに神の国の基礎は、いと小さきものです。一粒のからし種、吹けば飛ぶような小ささ、それに対し、終わりは、その小ささからは、期待されないような、驚くべき偉大なことが備えられるのです。どれも主に豊かに用いられたのです。小さな神の御言葉の種も、また自分は小さく何も出来ないと悩むあなたも、イエス様に全てをお任せし、蒔かれると、主は大きく豊かに祝福し、御用の為に用いて下さるのです。小さな赤んぼうから始まった神の国のみ業は、イエス様を中心とした十二弟子集団となり、地中海沿岸諸国からヨーロッパ全域、今日は極東と言われたこの日本までのその広がりを見せているのです。(7月15日)

 

「地の塩、世の光」 マタイ5:13~16  廣石 巍兄

 マタイ伝の5章1節から10節迄は、山上の説教と言われているところです。ここで主イエスは8つの祝福を示されました。その祝福に伴って、二つの責任を私たちに告げられています。第1の責任は「地の塩」、第2は「世の光」です。地の塩は、世の腐敗を防ぐためであり、世の光は、闇の世界の悪を照らすのです。今の日本はどんな国か、大雑把に二つに分けられます。一つは最も進んでいる技術支配の世の中、今ひとつは最も遅れている、天皇制的政治宗教です。最も進んでいるものと、最も遅れているものとが、ドッキングして融合しているのが日本の今日的状況です。技術支配は、0と1、即ち数字で置き換えることの出来る社会です。この社会の標語は、早い、便利、簡単。これが今日の技術者会の特徴です。次に最も古い天皇制的政治宗教。神道の背後にあるのは、古来からの政治宗教です。自然宗教は、政治宗教になり易いんです。日本の企業の殆どの企業には神社があります。JRにまで鉄道神社があるのです。今、私たちはこういう社会の中に生きています。私たちは弱く罪深い。でもキリストは強い。強いキリストはこの弱い罪深い私たちの中に働いておられます。ですからこの私たちの罪深く弱い言葉と行いをもって、世に証していかなければなりません。「あなたがたは、世の光である。あなたがたは、地の塩である。」(7月22日)

 

「キリストに触れる喜び」 マルコ5:21~43  三ヶ嶋徹牧師

 本日の会堂長ヤイロの娘の癒しの話の間には、12年間出血の止まらない女性の話が挿入されています。おそらくここを読む人は、何もこんな時に、イエス様は急がないといけないのでは、と言う気持ちを抱きます。しかし、私たちは覚えましょう。『時』には、神の時と、一般的に考えられている私たちの時があるのです。私たちは遅々として事が進まないことに苛つきます。しかし、全てには神の時があるのです。コヘレト、伝道者の書に、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時~殺す時、癒す時~」(コヘレト3:1)とあります。私たちには、理解できない神の時の支配があるのです。中国電波伝道の名称はカイロスというのを覚えておられるでしょうか。ギリシャ語で「時」と言うのは二つの言葉で言い表すことが出来ます。一般的には「クロノス」です。時計が時を刻むことを表すものです。しかし「カイロス」は違います。永遠から永遠におられる主なる神がこの世界の歴史の流れを支配しておられること、神が良しとされる時に神の介入を表す言葉なのです。主は、「あなたの信仰があなたを救った」と言われれました。そうこうしている間に、ヤイロの娘は亡くなったとの知らせが入ります。しかし、「恐れることはない。ただ信じなさい」とイエス様は言われます。ある意味単純かも知れませんが、ただ信じることによって、癒された12年間難病に悩まされた女性の信仰に、ヤイロも私たちも立ち返ることが大切です。    (7月29日)

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