「朽ちない冠を得る為に」 マルコ2:1~12  牧師 三ヶ嶋 徹

 

 この奇跡には、律法学者とイエス様との論争が重ねられ、両方で罪の赦しという一つの問題を語っていると言えるでしょう。つまりこの物語ではこのテーマを軸に、次の三つの点を織り混ぜて展開していると言えるでしょう。第一は、信仰と奇跡の関係です。4人の人は中風の人を治してもらうために、屋根をはがして病人を吊り降ろしました。それは、乱暴で非常識だと非難されても仕方のない行為と言えるでしょう。しかし、イエス様は彼らを叱るどころかその信仰を評価し、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのです。そして罪の赦しを巡る論争の後で、中風の人は癒されます。彼ら4人はイエス様に対する信仰の故に中風の人を連れて来たのであって、その絶対的な信頼、信仰のゆえにこの乱暴とも思われる行為に出たと言えます。ある意味信仰は人間的には非常識だと思われるようなことでも恐れずに行わせる。人をひたむきな生き方へと導いてくれるのです。逆に常識的で論理的で健全に見えることの中に、実はイエス様に絶対の信頼をおいていない不信仰が潜んでいる場合があります。その結果、命と力を失うことにもなりかねないのです。私たち日本のクリスチャンに力がないのは、案外このあたりに本当の原因があるのではないでしょうか。主イエス様は、彼らの徹底した信仰を見て、それに応えて奇跡を行われたのではないでしょうか。 (6月3日)

「主の呼ぶ声」 マルコ2:13~17  田村真副牧師

 

 徴税人は、当時のユダヤの状況の中で、悪者でした。ローマの従属国としてユダヤはローマによる課税を拒むことができなかったといわれています。税を支払うごとに、人々はローマ人の支配下にあるという現実を思い起こさねばならなかったのです。ローマ兵を引き連れて徴税する税金取りは、一般民衆からすれば当然、同胞を苦しめる裏切り者のように見えました。その裏切り者の一人が、のちにイエス様の御声に従って使徒となり、福音書を執筆することになるアルファイの子レビ=マタイだったのです。レビには、私たちに知りえない心の葛藤がありました。彼には、主なる神様をあがめて生きるというような理想があったのでしょう。しかし、収税人としてお金稼ぎをして同胞たちに嫌われる、という現実がありました。どうしようもない不甲斐なさや虚無感といったものを持っていたのかもしれません。そんなレビの心をすべて御承知の上で、イエス様が、神の御旨のために生きる歩みへと導いてくださったのです。福音書には、多くの人々との言葉のやり取りが記されています。神の御子イエス様はわけへだてなく若者にもお年寄りにも、大金持ちにも路上生活者にも、学者にも子どもに至るまで、ありとあらゆる年齢や階層の人々との出会いを尊び、そして彼らとの対話を心から喜んでおられます。全知全能なる神は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神です。私たちそれぞれの存在を尊んで、一人一人に呼びかけてくださいます。罪ゆえの裁きは、イエス様がすべて引き受けてくださいました。神様の慈しみを私たちはいただき、私たちの人生は支えられています。さあ、主の御声に応じて、御用のために立ち上がりましょう!               (6月10日)

 

 

「主と共にいる新しさ」 マルコ2:18~22  牧師 三ヶ嶋 徹

 

 聖書には断食のことが出てきます。主ご自身、荒野で40日断食をしました。「ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません」(マタイ7:21)とも言われ、断食の必要を強調されました。初代教会はしばしば断食をしていました(使徒言行13:2,14:23)。そこには自分を無にして神様に依り頼むと言う意味があります。しかし主は、断食とか宗教的修行を、手放しで肯定しておられるのではありません。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食は出来ない」と言われます。普通宗教というと、断食に限らず、しかつめらしい顔をして、自己を訓練し、修養すると考えるかも知れません。しかし今主は、断食とか宗教と言ったものを婚礼にたとえられました。そこには主役の花婿がいます。そして新しいものが生まれる喜びがあります。また自分を見つめ精進するより、そこに集って来ている人々との人格的な喜びの交わりがあります。この婚礼の主役である花婿はイエス様です。私たちは花婿の友だちです。主と共にいる喜び、それが信仰の中心です。それなのにしかつめらしい顔をして断食の修行をしていられるでしょうか。今やイエス様によって、もたらされた新しい命と喜びの中に私たち一人々は生かされています。古い生き方や因習に捕らわれないで、花婿であるイエス様と喜びの交わりの内に生きる者とされているのです。

                                      (6月17日)

 

 

「あなたの安息日」 マルコ2:23~28 栗﨑かおり伝道師 

毎週やってくる日曜日。私たちは一体誰の為に、そして何の為に教会へ来るのでしょうか?本来安息日は、主なる神様の喜びの日であり、これを聖別して、神様の喜びに預かる日。また主と共にある安息、平安、主が御手をもって救って下さった、その救いの喜びを覚える日です。それは、私たちのために定められたものです。実にイエス様は、「安息日は、人(あなた)の為に定められた。人(あなた自身)が安息日の為にあるのではない。」と言われます。そしてご自分が、その安息日の主であると宣言なさるのです。それは、安息日にある喜びを私たちに与えるのは、主ご自身であるという事です。イエス様が、私たち一人一人に与えて下さる喜びは何でしょうか?ご自身の十字架の死による贖いです。罪からの救いです。永遠の命です。ずっと続く希望です。イエス様が与えて下さる救いによって約束された、主と共にある本当の平安、そこにある本当の安息です。主イエス様のもとに、主ご自身だけがお与えになる事の出来る「安息」があるのです。私たちの為に定められた主の安息日は、主が与えて下さる喜び、主の命、主の安息に、私たちが与る日です。ただ主のもとにひざまずき、感謝してその与えられる恵みを頂く日です。そこには私たちの努力や、形ばかりの忠実さなどはいりません。ただ何もない手を差し出し、招かれる主のもとに行く事です。主の十字架のもとに、私達が本当に必要としている、安息があるからです。だから私達は教会へとやってきます。主の礼拝へと集まって参ります。それは、私たちを招かれる主が、そこにおられるからです。語られる御言葉の中に、主にある交わりの中に、賛美の中に、聖餐の中に、洗礼の恵みの中に、主が共にいて下さるからです。主と共にある事が、私達の本当の安息です。  (6月24日) 

近畿福音ルーテル津教会
​ 牧師:三ヶ嶋 徹

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