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5月6日 「友の為に命を捨てる愛はあるか」ヨハネ15:11~17

 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(Ⅰヨハネ4:10)。実に実を結ぶということは、愛の実を結ぶことです。今、イエス様はその中で最も偉大なる愛は「友のために自分の命を捨てること」であると語られます。この「友のために」がどれほど大切な事でしょうか。これはイエス・キリストの十字架の業に応答するものとして語られています。この「友」とは、私たちに親切にしてくれる友ではなく、私たちがしてあげる友、私たちが与えなければならない友です。しかしそのような「友」の為に、どうして自分の命まで与えることが出来るでしょうか。到底できません。それが私たち人間の愛の限界です。讃美歌312番に「慈しみ深き友なるイエスは、我らの弱きを知りてあわれむ」とあります。また「罪、咎、憂いを取り去りたもう」と讃美されています。友なるイエス様は、私たちの正しさや立派さの故に、ご自身を十字架にお付けになったのではなく、弱さと罪とを知りつつ、そのためにご自身を差し出して下さったのです。後にヨハネは、本日お読みいただいたヨハネ第一の手紙で、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(Ⅰヨハネ4:10)。この神の愛のゆえに私たちは選ばれ、この愛を実践するようにと私たちを任命し派遣されるのです。

                              牧師 三ヶ嶋 徹

 

5月13日 「我らの主よ、来て下さい」ルカ24:44~53

 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。また使徒言行録1:9では「イエスは彼らが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」とあります。そうすると御使いが現れて、「同じ有様でまたおいでになる」と告げたのです。イエス様の十字架、復活、それに続く昇天は、ある意味で神様の救済の歴史の成就と終わりを告げることになったでしょう。しかし、それは第一幕が終わっただけであって、新たな第二幕の始まりであったのです。つまり、今や弟子たちが宣教の担い手となって、キリストの証人となって地の果てにまで出かけて行かなければならないと言うことなのです。かつて主は「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」(ヨハネ14:12)と言われました。確かに主を中心とした宣教活動は、ガリラヤを中心に12人から始められました。しかしその後、弟子たちを通してペンテコステの日には三千人が救われ、その後、世界の果てにまで宣教の御業が拡げられて行ったのです。もちろんそれは弟子たちの働きだけがその実を結んだのではなく、主のご用のために、彼らを満たし、助け、導いて行ってくださった聖霊の働きなのです。故に、使徒行伝は聖霊行伝とも言うのです。あなたがたも、いやあなたこそキリストの証人なのです。主が再び世においで下さるまで、主の再臨を待ち望みつつ、「我らの主よ、来て下さい」宣教の務めをしっかりと果たしていこうではありませんか。     牧師 三ヶ嶋 徹

 

5月20日 「キリスト教会の誕生日」使徒言行録2:1~12

 イエス様の十字架、復活、昇天を経験した弟子たちは「イエスは主である」と言うことの証人となるために十分な心備えをし、「一つになって集まって」(2:1)、「心を合わせて熱心に祈って」(1:14)いたのです。「一つになって集まっている」と言うことは、「教会の集まり」を意味しています。「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」(1:5)と言う主の約束のために教会の集会を守っていたのです。約束の聖霊は、主の約束を心から信じ、熱心に待つ人たちに与えられたのです。その日に起こった「激しい風」は、神の霊をあらわし(エゼキエル37:9)、神の霊は、活発に燃える炎の霊であり、それが分かれて、舌の形をとって弟子たちの上にとどまったことは、彼らが神の言葉を語るところの神の舌を与えられたことを示しています。しかももっと不思議なことは、弟子たちが「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」ことです。これは、弟子たちの語る「福音」が、全世界の人々に伝わり、しかも、理解されたことを示しているのです。ちょうど、イスラエルの民族が律法を与えられた日「五旬節」に、全ユダヤ人が集められたように、ペンテコステのこの日にも、「天下のあらゆる国から」ユダヤ人が集められていたのです。その日に、「福音」の言葉による人々の一致がもたらされたのです。ベルの塔の事件以来、言葉の混乱をきたしている人間の世界に対して、この日を境として、「福音」の言葉による世界の真実の統一がもたらされたのです。           牧師 三ヶ嶋 徹

 

5月27日 「福音を恥とせず」ローマ1:16~23

 福音という言葉は、ギリシヤ語で「よき知らせ」ということです。その原文の意味は、「戦争に勝った」という知らせです。戦争で兵隊を戦地に送り出す。町では国民が、戦争の行方がどうなったかを、固唾を飲んで待っている。そこへ知らせが届く、そしてどうだったかと云うと、“勝ったよ”。それが福音であります。しかし当時は、このよき知らせを、必ずしもそのまま信じられないような出来事があったようであります。それは何かというと、にせの知らせを持ってくるということなのであります。ですから人々は、福音を聞いた時に、それが本当かどうか再吟味しなければならない時代があったのです。しかし、パウロが言っている福音は、そういうものではありません。パウロがここで云っている福音というのは、絶対に信じて大丈夫なものです。パウロはそれを当時の世界に出て行って、私はそれを恥としないと云ったのです。

 パウロが出て行った国は、ユダヤとローマとギリシヤでした。そこで、私は福音を恥としないと云ってかけめぐったのです。マルチンルターもパウロが励んだ如くに励んだのです。そしてローマカトリック教会に対して、反旗をひるがえし、聖書の真理を宣言しました。福音の力を信じた、その信仰の再発見によって、ルターは世界を変える仕事にとりかかったのであります。私たちはどこでどんな人に出会い、何を語るにせよ、今日ここに福音を必要としない人は一人もいません。ですから私たちは、これを信仰によって受けとり、立ち上がらなければなりません。私たちはやがて地上での生涯を終え、神の前に立たされます。その時、後悔することがないように、今日という日を、大切に生かしたいと思います。       廣石 巍 兄 

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