4月1日 「十字架の主は復活された」マルコ16:1~8

 全ての人の伝記は、死の物語で終わっています。しかしイエス・キリストの地上における生涯とそのお働きについて書かれている福音書は、復活の出来事によって結ばれています。私たちにとって、死は人生の終着駅と考えられています。喜びも悲しみも希望も生きている間だけのことだと受け取られています。しかしイエス様においては、十字架の死は、そこから新しい生命が始まり、世界中に広まって、全ての人を救いに導く新しい歴史の出発点となったのです。女のお弟子たちが墓に行って、探し求めたのは、生きておられるイエス様ではなく、死んでしまって、もはや過去の人物になってしまったナザレのイエス亡骸でした。しかし、私たちが聖書中で出会うのは、今はもう生きておられない、過去の偉大な人物としてのイエス様ではなく、目には見えませんが、目に見えるものよりもはるかに確かな存在として、今も生きておられ、私たちと共におられる、死んで復活されたイエス・キリストです。私たちは、たんなる過去の歴史上の人物としてのイエス様を尋ね求めて、聖書を読むのではなく、昔も、今も、そしていつまでも、生きて私たちと共におられるイエス・キリストの出会いを求めて読む必要があります。福音書はたんなる伝記ではありません。イエス様の遺体を探しも求めた女たちに、御使いは、イエス様が復活なさったことを、空虚な墓を指示しました。彼女たちは突きつけられた事実に対して、初めは誰にも何も言わなかったとありますが、御言葉を伝える者に変えられていきます。復活の事実は確かめる事ではなく、その事実を信じる事が求められているのです。            牧師 三ヶ嶋 徹

4月8日 「不信仰から、復活の主を信じる信仰へ」(マルコ16:9~18)

 マルコは、いずれの時も人々が信じなかったことを強調しています。これは単に弟子たちの不信仰を責めるだけでなく、復活と言う出来事がこれほどまでに人間にとっては信じがたいことであると言うことを逆に強調しているようです。それはまた、ヨハネ20章25節以降に登場して来るトマスがその良い例と言えるでしょう。自分の感覚で確認し、納得するまではどうしても信じることが出来ないのが私たち人間の現実と言えるでしょう。このように見て来ると、イエス様の復活は弟子たちが考え出したことでなく、驚くべき神の事実であることが分かってきます。イエス様は、全能の神の御力によって、事実死人の中からよみがえり、女や弟子たちに現れたのです。「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。」とあります。イエス様が弟子たちの不信仰を責められたという、直接的な表現は他の福音書にはありません。マルコの福音書は、これまでも一貫した弟子たちの霊的盲目と人間的な弱さを描きつづけてきましたが、その最後の所までも弟子たちの不信仰を厳しく指摘しています。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」この宣教の大命令は、弟子たちのそれまでの理解をはるかに越えたものであったと思われるのです。そしてやがて、時が満ちて、その意味を悟ると、彼らは聖霊に導かれて宣教を始めて行く者と変えられていきます。世界中に福音が行き渡ると、弟子たちのうちの誰が考えたでしょうか。しかしそれからの2千年の教会の歴史は、イエス様の命令が見事に実現したことを立証していると言えるでしょう。主イエス・キリストのご命令は空しい言葉ではなかったのです。主の言葉には必ず実現が伴うのです。しかも不信仰で弱かった弟子たちによってそれは成されたということを私たちは忘れてはなりません。神は、主イエス様は、不信仰な弟子たちを用いられ、世界宣教という大事業を行われたのでした。私たちも不信仰で弱い者であるにもかかわらず、神の福音のために奉仕させていただけるのです。  牧師 三ケ嶋 徹

                

4月22日 「舟の右側に網を打て」ヨハネ21:1~14

 今、弟子たちはティベリアス湖畔で、再び復活の主にお会いします。漁に出た弟子たちは、夜通し働きましたが何の成果もありませんでした。今、疲れ果てた弟子たちの前に主は現れて下さいました。しかし、弟子たちには、それがイエスだとは分からなかったとあります。疲れは霊的盲目を誘うのでしょうか。イエス様は「舟の右側に網を打ちなさい」と言われます。彼ら弟子たちは素直にその言葉に従います。そうすると、網を引き上げることが出来ないほどの魚が捕れます。この時も、大漁のしるしを見て岸に立つ方がイエス様であると気付いたのは、主が愛されていた弟子だとあります。彼らは初めて「主だ」と言って気付くのです。恥ずかしさからか、ペトロは裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだとあります。泳いで岸に向かったようですが、たった90メートルほどの距離だというのに、相も変わらずペトロは性急であると言えます。しかし、上辺だけを取り繕うのではなくて、シモン・ペトロは15節以降で真剣にイエス様に向き合い、真実に応えていくことになります。イエス様のお言葉に従う者には、常に神の祝福が伴うのです。越えがたいほどの壁に直面して、希望のかけらすら見えない時も、また理解しがたいこと、不可能と見えることが押し寄せる時、そのような時こそ、主の言葉に従って一歩を踏み出すことが大切なことなのです。さて、岸に上がってきた弟子たちの前には、既に主によって食卓が整えられていました。つまりイエス様ご自身が弟子たちのために食事を準備されたのです。「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。」とありますが、「何か食べる物があるか」と尋ねられた主はちゃんとご自分で備えていて下さったのです。この光景は、あの5千人の給食の時、弟子たちに対して「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と言われた主ご自身が、5つのパンと2匹の魚をもって豊かに養って下さった事を想起させます。主はいつも弟子たちの必要を満たしてくださるお方です。ここで再び、弟子たちは主のお言葉に従うことの大切さと、全てに先立って主が恵みを与えてくださると言うことを確信したことでしょう。さらにまた、かつて主ご自身が語られた「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われた言葉を思い起こしたことでしょう。 牧師 三ヶ嶋 徹

 

4月29日 「キリストにつながる者の幸い」ヨハネ15:1~10

 確かに旧約聖書ではよくイスラエルがぶどう畑やぶどうの木にたとえられていますが、ところが、良いぶどうの木であったはずのイスラエルが良い実を結ばずに、悪い実を結ぶ結果になってしまった。そこで神様は古いイスラエルに代わる新しいイスラエルを形成するために、御子イエス様をこの世に遣わされたのです。イエス様はぶどうの木の比喩を用いて、新しい神の民がイエス様につながっている生命共同体であることを示し、良い実を豊かに結ぶようにと一人一人に教えられたのです。

 つまりユダヤ人たちは、自分たちがイスラエル民族に属しているから、神のまことのぶどうの木であると考えているのです。選民イスラエルだから、血筋や出生や国柄のゆえに神のぶどうの木であると理解していたのです。しかしまことのぶどうの木は民族ではありません

。イスラエル民族は預言者が言っているように、堕落したぶどうの木なのです。つまり彼らユダヤ人であると言う事実が彼らを救うのではありません。イエス・キリストと親しい生きた交わりを持ち、主を信じる信仰によって救われるのです。なぜなら「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」とイエス様ご自身語っておられます。つまり彼ら自身イエス様につながれている枝でなければならないのです。神の救いに至る道はユダヤ人の血筋ではなく、イエス様を信じる信仰なのです。           牧師 三ケ嶋徹

近畿福音ルーテル津教会
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