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3月4日「信仰は御言葉を聞くことによる」ヨハネ2:13~22

「過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って~神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを~縄で鞭を作り、境内から追い出し」とあります。そしてさらに「このような物はここから運び出せ、わたしの父の家を商売の家としてはならない。」と言われました。このお言葉の意味は、神殿本来の目的にかなわないすべてのものは拒絶され、除去されなければならないと言われておられるのです。更にもう一歩進んで言えば、「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」とあるように、これは神殿のいけにえの制度そのものの廃止を意図した言葉と捉えることが出来ます。つまりそれは、礼拝の本来あるべき実質的内容が失われ、いつのまにか形骸化した「生け贄を捧げさえすれば、賽銭だけ捧げていれば」というような、安易な礼拝が行われてきたのではないでしょうか。顧みて、私たちの今日の礼拝はどうでしょうか。神様への礼拝と言いつつ、その実、先ずは信徒同志の安否が大切であるとか、あのこと、このことの打ち合わせが大事であるとか、主への礼拝、感謝が後回しにされているのではないでしょうか。主が、御子が私たちに仕えて下さる、今日も十字架の贖いをもって、その愛を示して下さっておられるのに、私たちの思いはこの世のことでいっぱいいっぱいではないでしょうか。それはあのベタニア村のマルタのように、忙しく立ち振る舞って、ついにはその怒りがイエス様に向けられます。「主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:41,42)私たちも、もう一度必要なことに、全身全霊をかけて主を礼拝しましょう。 牧師 三ヶ嶋 徹

3月11日「十字架の主を、ただ仰ぎ見る」ヨハネ3:13~21

 人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」主は十字架の意味を例証する為に、民数記21章からのイスラエルの民が荒野を40年にわたって彷徨った時の一つの出来事を引き合いに出されました。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」。食糧難と水不足に苦しんだ民はモーセに逆らい、その罰として彼らは神様が送られた燃える蛇に咬まれ、多くの者が死にました。民は自分たちの不従順を悔い、モーセに助けを求めました。モーセは神様の命令に従い、青銅の蛇を作り、旗竿の先に吊しました。そして、その青銅の蛇を見た民は救われたのです。民数記はイスラエルの民の不従順な姿をありのまま描きます。そしてまた、彼らの嘆きと共に悔い改めの姿も描いています。今、イエス様はその青銅の蛇と同じように、ご自分も上げられなければならないと言われます。それはまさに十字架を指して言われていることです。十字架に上げられるイエス様を信じて仰ぎ見るものは誰でも、永遠の命を賜物として受け取ることが出来ると語られます。私たちはともすると、「もう駄目だ、終わりだ」と、よく言いますが、イエス様は私たちにやり直すことの出来る道を、やり直しのきく人生を提供して下さったのです。

                          牧師 三ヶ嶋 徹

3月18日「イエス様の使命」ヨハネ12:36b~50

「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。ヨハネ12:47」。イエス様の使命は、「世を救う」ことです。神様は、神に背き、善悪の知識の木から実を取って食べたアダムとエバにさえ、「皮の衣」という恵みをお与えくださり、人が罪の中で永遠に生きる最悪の事態を回避するために、エデンの園から送りだされました。

 今、神様は私たちに、一番良い着物であるイエス様の血による「義の衣」を与え、迎えてくださいます。つまり、「世を救う」ことをより具体的に表現するならば、一人も滅びないように「義の衣」を着せるために、イエス様は来られたということです。神様は、イエス・キリストを身にまとっている者を「義(救いと同義)」としてくださいます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3:16」とあるように、神様は、ただの一人もあきらめてはおられません。ですから、私たちは、イエス様の復活の恵みにあずかる者として、大切な人に伝えていきましょう。「あなたが、安心して神様の前に立つことができるように、イエス様はきてくださったのです」と。                         瀬戸幸治 伝道実習生

3月25日「主の用いられる器として」マルコ11:1~11

 主は弟子たちに難しい注文をされます。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ロバのつないであるのが見つかる」と言われるのです。そんなにうまく行くのでしょうか。アブラハムが息子イサクを献げよと命じられた時、神様は代わりの雄羊を備えられたことを思い起すなら、神様が子ロバを用意されることは、いと簡単なことです。「ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)」のです。弟子たちは向こうの村に行くと、しかも、それは「村に入るとすぐ」に見付けられたのです。加えて、大切なことは何の経験もない非力な「子ロバも用いられる」。用いて下さるのは神様であるということです。ゼカリヤ書9章9節には、『娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。』ここにはイスラエルの王がロバに乗ってエルサレムに入場されると言う預言があります。つまり主イエス・キリストは、その預言の成就として、王となってエルサレムに行くのです。「まだだれも乗ったことのない子ろば」と言うのは、神様にささげるための清い汚れのないものであることを象徴しています(民数記19:2)。イエス様は今、けがれなき神聖な王として、エルサレムに入って行かれます。   牧師 三ヶ嶋 徹

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