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2月4日「キリスト者の使命」マルコ1:29~39 

 シモン・ペトロは、イエスさまの一番弟子と言われた人ですが、主に誰よりも先に従い、ある意味仕事も捨ててイエス様についていきました。しかし、自分の家には、しゅうとめが熱病で休んでいたと言う、辛く大変な状況にあったのです。それを乗り越えてイエス様に従って行ったことが分かります。しかし私たちはどうでしょうか。何か心配事や問題が起こると、イエス様と共に歩むことを躊躇ってしまうことがないでしょうか。後にペトロは言いました。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(Ⅰペトロ5:7)。ペトロの口先だけの言葉ではないのです。実に彼自身の信仰生活の中で経験した悲喜こもごもから出てきた言葉と言えますね。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)。自分の心遣いを最初にすると、いつまでも心配事のとりこになって、解決の道を見失ってしまうことになるかも知れませんね。第一のものを第一にする時、第二、第三はそれに添えて与えられると、主イエス様は語っておられます。先ず第一にイエス様を求め、イエス様に従う時、イエスご自身が、私たちのもとに来てくださるのです。人の悲しみ、苦しみを最も良く知っておられるイエス・キリストは、その私たちの悲しみの下で、真の勝利者であられるのです。イザヤ書53章の主のしもべのうたで、「彼は多くの痛みを負い、病を知っている。」(イザヤ53:3)と語られています。                        牧師  三ヶ嶋 徹

2月11日「栄光のキリストに聞き従え」マルコ9:2~9 

 何を言っていいか分からないペトロが、仮小屋を建てて、主イエスと旧約の代表者である・モーセ・エリヤ、その素晴らしい栄光をこの世に留めようとします。それは彼の欲望とも言える思いではないでしょうか。顧みて私たちも地上でどんな素晴らしい経験をしても、また仮小屋どころか、そんな小さいものではなく、偉大なる建造物を立て上げたとしても、そこに永遠の価値を置いて、それこそ絶対であると主張するなら、その意味は失うことになるでしょう。まさしく砂上の楼閣と言えるのではないでしょうか。

 今、ここに山の上で起こっている輝かしい出来事は、やがて神の国が来る時、実現される栄光の先取り、予表に過ぎないのです。わたしたちはこの予表に勇気付けられて、この地上の生涯を十字架を負うて生きることが出来るのです。ペトロがこの素晴らしい栄光を留めようとしたのと同じように、私たちのこの地上の歩みにおいて、自分の楽しみだけに、自分の欲求だけを満たそうと生きる人は主の御心に適う者ではありません。しかしイエス様は、この山を下りて、十字架への道を歩まねばなりません。ペトロはいつも十字架抜きの栄光を求めていました。この世だけの栄光を求めていたのです。故に、キリストが十字架にかかる前夜、彼は失望して三度キリストを否んでしまうのです。けれど十字架はそれだけでは終わりません。それに続く復活があるのです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:23)との、主の力強い約束の言葉を信じて、主イエス様に聞き従う者となりましょう。

                          牧師  三ヶ嶋 徹

2月18日「奴隷を思いやる神の愛」フィレモンへの手紙8~16

 「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。~一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。」(フィレモン16,17)

 フィレモンへの手紙は、とても短い手紙ですが、非常に美しい手紙です。使徒パウロがフィレモンに手紙を書いております。この手紙を書く時に非常に難しい立場にありました。この手紙の背景は、ある一人の奴隷(オネシモ)がいまして、主人のお金を盗んで、ローマへ逃亡したのです。そこでたまたまパウロと出会い、色々と話を聞かされる内に、イエス様のことを知り、クリスチャンになりました。そこでパウロは、主人のもとへオネシモを返そうと思うが、思うようにいきません。

 パウロの取り計らいでどうにかうまく納まってフィレモンのもとへ引き取られました。それも以前の奴隷としてではなく、兄弟として引き取られます。このフィレモンの手紙は、私たちに何を教えようとしているのでしょう。例話の中に出てくる奴隷は私たちで、とりなしをしているのはパウロ、イエス様のことです。イエス様は代価を払ってくださいました。神に背いた奴隷のような私たちを贖ってくださいました。私たちもオネシモのような純心な信仰の道を歩みたいものです。        廣石 巍兄

2月25日「仕えられる主」マルコ10:32~45

 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。(マルコ10:43)」「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。(マルコ10:45)」イエス様は、神の国での栄光を求めるなら、この世の国と同じように「支配する力」を求めないで、「仕える者になりなさい」といわれます。人が支配する国は、自分の下に人を置く世界です。いわば他者との比較の上で成り立っている「相対的な世界」と言えるでしょう。そのような世界で幸せになるには、自分よりも下の人間を作るしかありません。例えば、財産、社会的な地位や名誉、外見など、あらゆる物事を、心の中で他者と比べてはいないでしょうか。

 これに対して、神の国は、神が支配される国です。私たちは、旧約聖書の創世記に記されているエデンの園から、その世界を知ることができます。神は、人間を創造されました。それは、愛し、仕えるためです。罪が入る前の人は、神から尽きることのない愛があふれるように注がれていて、人もそのことを深く理解でき、神と人は本当に深い意思疎通の関係にあったことでしょう。そして、その愛を受ける人は、他者にもその愛をそそぐことができた。神の国は、まず神と人との双方向の関係があり、そして人と人との双方向の関係がある。神の国は、他者との比較のない、いわば「絶対的な世界」ではないでしょうか。そのことを私たちが理解できるように、イエス様は来てくださり、「仕える(奉仕する)者になりなさい」と言われます。

 イエス様は、馬小屋でのご誕生から、十字架の死に至るまで、徹頭徹尾、神に、そして人に仕えて下さいました。イエス様の奉仕こそ、すべての奉仕の模範です。そして、十字架の「贖い」の死こそ、最高の奉仕です。イエス様は弟子たちを、そして私たちを神の国を獲得する友として、ひいては、私たちが本当の幸せに至るために、「仕える者になりなさい」と招いておられます。            瀬戸幸治伝道実習生

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