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​1月1日「不足を満たされるお方」ヨハネ2:1~11

 ここでイエス様が語られたわたしの時はまだ来ていません。のわたしの時とは、何を意味するのでしょうか。他の福音書で「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」(ヨハネ17:1)」と祈っておられます。つまりイエス・キリストの時とは、十字架・復活によって、救いを完成する時のことなのです。その時はまだ来ていない。それはイエスさまの母が小さな奇跡に期待して、大きな救いの成就を忘れてしまわないように、イエスさまの本来の使命の時を思い出させようとして、そう言われたのではないでしょうか。イエス様はつれない返事をされる時、いつもこの事実を思い起こさせようとしておられるのではないでしょうか。

  しかし、それでもなお、主イエスさまはこの小さな願いも聞いてくださるのです。私たちの「小さな不足をも満たされるお方」なのです。私たち人間は、いつもこの小さい願いの方が大切で、それに囚われてしまいます。主は言われました。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:31~33)        牧師  三ヶ嶋  徹

​1月7日「主と共に歩む一年に」マタイ2:1~12

 『そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」』

 しかしその闇の中に、神の救いの光が、射し込んでくるのです。学者達が東で見た星、それはこの救いの光を指し示しているのです。彼らはこの光に会うために千里を遠しとせずにやって来たのです。この学者達は選民イスラエルの民でもありません。異邦人です。今、異国の学者達がイスラエルに先だって、真の救いの光を仰ぐことになったということです。同じマタイの福音書で「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」(マタイ21:31,32)、「 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」(マタイ21:43)と、イエス様は祭司長や民の長老たちに語っておられます。この新しい光を見、神の御業がなされるとき、人は驚くほどの努力を成し遂げます。学者達は遠い道のりを苦労してエルサレムにやってきました。聖書の御言葉を学び、研究していて知っていても、信じて従うことをしなかったために、ヘロデ王のもとに居る律法学者たちは救い主へと導かれませんでした。聖書の御言葉はいくら知っていても、信じて従わない限り光を放って来ません。信仰者があらゆる努力をして救いを作り出すのではないのです。救い主は既にお生まれになって、信じる者をお招きになります。私たちはそのお招きに応えて、あらゆる努力を惜しむことなく、招きたもう主の御元に馳せ参じるのです。           牧師 三ヶ嶋 徹

​1月14日「神の使命に生きる洗礼」マルコ1:9~11

 ヨハネのバプテスマは、私たちが罪を悔い改めて、神様の赦しを受けるためのものでしたから、もともと罪のない、神の一人子であるイエス様が、それをお受けになる必要はなかったはずです。しかしイエス様は私たちを罪の力救い出すために、私たちと同じ罪に汚れた人間の立場に身を置かれて、洗礼をお受けになったのです。さて、再生の洗いと言われる洗礼は、洗礼の水で溺れ死に、再び、神の命の内に生きること、神の使命に生きることを表しているものです。であれば、水に溺れている人を助けるためには、同じように、水の中に入らなければなりません。フィリピの信徒への手紙2章6~8節でパウロが語っているように、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

神様と等しいイエス様が、私たちを救うために、私たちと同じ人間になられたのです。だから私たちと同じように洗礼をお受けになったイエス様と共に生きることが赦されるのです。洗礼はキリスト教信者になるための、たんなる儀式や悔い改めのしるしではないのです。なによりも、私たちの罪を赦すために十字架におかかりになったイエス・キリストと私たちが、一つと結ばれることのしるしなのです。       牧師 三ヶ嶋 徹

​1月21日「わたしに従って来なさい」マルコ1:14~20

 「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』イエス様の宣教の内容は、神の国の到来です。「神の国」というのは、言語のギリシャ語、ヘブル語で「神の支配」を意味します。それは言ってみれば、「神ご自身の到来」と同じです。つまり、神の御子イエス・キリストの到来なのです。それは私たち人間がもたらしたのでもなく、神の国は人間の道徳的精進や努力で、達成する結果ではありません。それは罪人の世界に、その暗闇の世界の只中に、神ご自身がもたらして下さった。言葉として、命として、光としておいで下さったのです。では、私たち人間は何もしないでよいのでしょうか。そうではありません。悔い改めて福音を信じることです。「悔い改める」とは、私たちが180度神のほうへ向き直ること、転換することです。つまり、自分中心の生活から、神中心の生活に転換すること。そしてそれは「喜びのおとずれ」を信じることでもあるのです。「悲しみや、暗さや、運命の力」を信じるのではありません。望みのない時代、望みを持って信じるのです。自分の周りにも、どこにも暗さが一杯の時に、その暗さを信じないのです。どこでもどんな時でも神の国の到来を信じ続けるのです。マルチン・ルターはいいました。「福音を信じるだけでは足りない。悪魔の力強さを知り、その前に弱い人間である自分の姿を見なくてはならない。それだからこそ、私たちはただ福音に拠り頼むのである」。牧師 三ヶ嶋 徹

​1月28日「権威ある新しい教えとは」マルコ1:21~28

 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。主の奇跡の特色の一つは悪霊の追放であり、イエスさまはそれを権威をもって行われました。そして、著者のマルコはこのことを神の国の到来と結び付けています。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。私たち自身も、悪霊と戦わなければならないことを忘れてはなりません。パウロも「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェソ6:12)と指摘しています。この時代にあって、汚れた霊やサタン、悪霊のことなど話題にすれば、一般の人にはあざ笑われるかも知れません。しかし、現代の狂気は、この世界の在り様は、まさにサタンの仕業であり、人々は悪霊の意のままに動いていると言っても過言ではないでしょう。あらゆる媒体を通じて伝えられるくらいニュースはそのことをよく表していると言えます。しかしそのような世界の中でも、私たちキリスト者は、キリストにあって、悪霊の支配を打ち砕き、勝利を得ることが出来るのです。十字架のキリストの贖いの故に! 牧師  三ヶ嶋 徹

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