12/3「我が内に喜びの訪れを」マルコ11:1~11

 今、主はエルサレムへの入城にあたって必要なろばの子を用立てるために、二人を遣わしたのです。二人というのは、大切なことです。一人が倒れた場合も代わりがいます。二人は支え合って、神の真理を明らかにし、それはどちらの功績にもなりません。大切なのは一人の人間が、天才的な力を発揮することではなく、 二人の証人が一つの神の真理を明らかにするのです。彼らの仕事は、あらかじめ主が用意した場所に行き、主の用意したものを持ってくることです。何とやさしいことではないしょうか。あのモリヤの山で、息子イサクをささげるように言われた神ご自身が、そのささげ物を用意して下さったように、ヤーウェ・イルエ「主の山には備えあり」(創世記22:14)ということを、私たち信仰者は経験するのです。このようにいつも肝心の時には、必要なことを、私たちに先立って主が用意しておられることを忘れないようにしましょう。さてそこで、「主がお入り用なのです。」というと、すぐに自分のろばを差し出してくれる名前も載らない信徒がいるということです。このような信徒がいなければ、イエス様のエルサレム入城はどうなっていたでしょうか。有能な弟子がいても、素晴らしい説教がなされても、見事な教理であっても、いつでも自分のものを差し出す信徒がいなければ、今日までキリスト教会は存続していたでしょうか。ですから偉大なことだけが、立派なことだけがイエス様の証しに役立つとは限らないのです。私たち無名の信徒の誠意をこめた、小さな捧げ物や奉仕が、実に神は大きくご用のためにお用いになられるのです。              牧師   三ヶ嶋 徹

12/10「真実の解放を告げるお方」マルコ1:1~8

 神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

新約聖書の初めにおさめられている4つの福音書は、それぞれの特色を持っています。いずれも、イエス・基督のご生涯について書かれています。しかし、それは単なるイエスという人物の伝記ではなく、このお方によってもたらされた、良い知らせ(福音)を伝えるために書かれたものです。福音とは、もともと、新しい王が即位したことの知らせや、使者によってもたらされた、戦いの勝利の知らせという意味を持っています。「福音」とは、「喜びのおとずれ」とも言います。「喜び」というからには、どんなにか、美しい花園やきれいな音楽が奏でられているかと思えば、最初に出てくるのは「荒野」です。しかし、聖書の中において、「荒野」は大きな役割と意味を持っています。イスラエルは、モーセをして荒野を40年彷徨い、その間神はマナをもって彼らを養ってくださいました。また新約では、イエス様が荒野で40日の間、断食をされた後、悪魔の誘惑に会われました。さらにイエス様は、大きな奇跡を行われる前と後に一人淋しい所(原語では荒野)に身を置かれました。そこはただ神にのみ依り頼むところです。そう言う意味で、「荒野は、信仰者の学校」と言えるでしょう。私たちの人生においても荒野と思えるような時があります。荒野を恐れてはなりません。

                            牧師 三ヶ嶋 徹

12/17「主の道をまっすぐにせよ」ヨハネ1:19~24

 私たちに良い知らせをもたらすためにイエス・キリストがおいでになったことは、決して2千年前に起こった偶然の出来事ではなく、それ以前から長い間、イスラエルの人々が神の約束として待ち望んできたことであって、歴史を支配される神様の深いご計画によって、予め定められたことなのです。実に旧約聖書はそのことを私たちに教えています。だから、旧約聖書を抜きにして、私たちは新約聖書を正しく理解できませんし、ある意味、イスラエルの歴史を抜きにして、イエス・キリストについて語ることは出来ません。このことは聖書を学ぶ時に、いつも心に留めておかなければならない大切なことです。故に、イエス・キリストについて述べるに先立って、イザヤ書に預言されている荒れ野で叫ぶ者の声としてあらわれた、洗礼者ヨハネについて述べるのです。「そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」荒野を泉の湧き出る場所とするには、どうしたらよいのでしょうか。それには、用意が、準備が必要です。主をお迎えするための心の道備えが必要なのです。それはヨハネが言うところの「悔い改め」なのです。悔い改めとは神様に向かって方向転換することです。ギリシャ人は「一度起こってしまった過去は、取り返しがつかない」と言います。しかし、福音においては違います。放蕩息子は父のもとに帰ることが出来るのです。神に立ち返る時、その罪を赦し、義の衣を着せ、喜んで受け入れてくださるのです。             牧師 三ヶ嶋 徹

12/24「世界の救い主の誕生」ルカ2:1~20

 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。(ルカ2:14,15)

 主イエスさまが来られました。その知らせを聞いたのは、小さな人たちでした。羊飼いがそうでした。占星術の学者たちも同じです。彼らはユダヤ人たちから軽蔑されていた異邦人たちでした。またヨセフとマリアです。地位も力もありません。特別な学問もありません。ごく普通の庶民です。しかもイスラエルの中心地であるユダヤ地方の人ではありません。北のガリラヤ地方の住民です。「異邦人のガリラヤ」と言われ、軽く見られていた地です。いずれも、天の栄光の訪れを聞くには、意外に思われる人たちでした。いや、イエスさまご自身が、小さなお姿でお生まれになりました。飼い葉おけの中に眠っておられます。それが、神さまの御業の「しるし」です。寒くて暗い家畜小屋で、飼い葉桶の中に、救い主イエス・キリストは眠っておられます。そこに神さまの栄光が天に輝いたのです。天の栄光の輝きが、地上では小さなしるしとなって現れました。「地には平和、御心に適う人にあれ。」これは特別な人だけに、平和と安らぎが与えられるのでしょうか。いいえ、御心に適うと言うのは、小さな人のことです。あの羊飼いや占星術の学者たち、ヨセフやマリアです。地位も力もなくても、神さまに対して真実に従う人たちのことです。救い主が小さく、低く貧しい人のところに来られました。この人たちこそ、御心にかなう人です。このクリスマスの御業を担う人として用いられた一人ひとりは、「恐れるな」という言葉を聞きます。恐れながらも、天の栄光を仰ぎ見ます。彼らは平和と安らぎをいただいたのです。                                      牧師  三ヶ嶋 徹

12/31「不足を満たされるお方」ヨハネ2:1~11

 ここでイエス様が語られたわたしの時はまだ来ていません。のわたしの時とは、何を意味するのでしょうか。他の福音書で「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」(ヨハネ17:1)」と祈っておられます。つまりイエス・キリストの時とは、十字架・復活によって、救いを完成する時のことなのです。その時はまだ来ていない。それはイエスさまの母が小さな奇跡に期待して、大きな救いの成就を忘れてしまわないように、イエスさまの本来の使命の時を思い出させようとして、そう言われたのではないでしょうか。イエス様はつれない返事をされる時、いつもこの事実を思い起こさせようとしておられるのではないでしょうか。

 しかし、それでもなお、主イエスさまはこの小さな願いも聞いてくださるのです。私たちの「小さな不足をも満たされるお方」なのです。私たち人間は、いつもこの小さい願いの方が大切で、それに囚われてしまいます。主は言われました。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:31~33)          牧師  三ヶ嶋  徹

近畿福音ルーテル津教会
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