10/1「心と信仰を一つにして」マタイ18:15~20

 十字架を前にして、イエス様は次第に、キリスト教会のあるべき姿と教会の中における兄弟姉妹の取るべき態度について、明らかにされていきました。マタイ12章50節では「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」という主の教えに従い、初代教会では、信仰の仲間が重要な意味を持っていたと言えます。パウロもまた「ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」(ガラテヤ6:10)と語っています。

しかし、信仰の仲間、兄弟のあいだにも、種々の問題があったことは事実でした。ルター訳では「兄弟があなたに罪を犯す」となっています。しかし、ギリシャ語を見ると、罪を犯す対象が記されていません。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」と語られます。兄弟に忠告する以上は、自らもその秤ではかられることを私たちは知らなければなりません。日本には、「触らぬ神に祟りなし」と言う諺があります。それはいたずらに他人の問題に干渉しない方が良いという考え方から来るものです。しかしそれは真の兄弟愛とは言えません。忠告して、その友人が悔い改めるなら、その友人は滅びを免れ、忠告した者は「兄弟を得た」ことになります。

イエス様は、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、」と語られます。二人ということは、たった二人ともとれます。しかし、二人は、一人ではありません。群れの最小の数字ですから、教会の人たちが地上で心を一つにして求めるなら、と解釈することもできます。心を一つにして祈るためには、その祈る人たちは、互いによい関係でなければ心を一つにすることはできません。       牧師  三ヶ嶋  徹

10/8「私たちの負債をもお許し下さい」マタイ18:21~35

 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」兄弟が、わたしに対して罪を犯したならということは、これは特別なことでしょうか。人は他人から被害を受けて、初めてその痛みを知り、人に対して危害を加えることが大変なことを知り、そして自分がひどい目にあって、「罪を赦す」ことの難しさを知るのです。当時ラビたちは、アモス書の1章に繰り返されている「三つの罪、四つの罪のゆえに、わたしは決して赦さない」(アモス1:3)と言う言葉をもとにして、三度まで許すことを教えていたと言われています。つまりペトロは思い切ってこの数を増やし、完全数と言われていた七度、七回までの赦しを口にしたのです。しかし、ここで彼の間違いは、自分の赦しを勘定していることです。数えている時、自分の赦しであって、神の赦しではありません。愛することは、自らも忘れるほど愛している場合のみ、本当の愛であって、勘定しているうちは本当の愛ではありません。イエス様がここで無限に許せと語られないで、このように、実際の数を示されたのは、注目すべきことではないでしょうか。神様の恵みを真実に心に経験した者は、その人も出て行って、実際に人を赦さなければなりません。

 私たちに解るのは、譬話にある他人に貸した百デナリオンです。つまり自分の損になるとき、人の罪は分かるのです。しかしそれはあくまでも他人の罪でで、自分の罪ではありません。だから、私たちの気づかない罪を分からせるために、神様は人となって、十字架の重荷を負って下さったのです。王が借金を全部棒引きにし、赦したのは、ある意味で王が損をしたのです。そのように私たちの王なるキリストは、十字架の上で損をし、重荷を担って下さったのです。ここに神の大きな愛と赦し、恵みの深さ、大きさが現されています。                           牧師 三ヶ嶋 徹

10/15「神様の気前の良さ」マタイ20:1~16

 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。」

信仰というものは、私たち人間が求め、始めることではありません。「家の主人」である神様が、自分の方から朝早く出て、私たちの方に向かって来られるのです。神の招きなのです。それも一片の葉書や招待状ではなく、招く主人自らが出向いて来られるのです。つまり、神様ご自身、人となって私のところに来て下さったのです。したがってここで起こっていることは、神様が先なのです。神様はこの恵みの出来事にあずからせようと、ほかならないあなたを招いておられるのです。神はイエス・キリストにおいて、私たちの生活のただ中に立っておられるのです。しかし、まだ夕方の五時に行っても、まだ誰も雇う人がいなくてただ立っている人がいます。彼らもまた主人は声を掛け、雇ってくるのです。神様は求めておられます。他でもない、遅れているあなたを求めておられます。神の絶大な愛は、私たちを拒否するどころか、この世の誰も雇おうとしない、あなたを雇おうとされます。しかもその賃金、報酬は、同じ1デナリオンです。その上、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってもらえるのです。これは順序が逆ではありませんか。ここでは人間の価値とか、働きとか、性格とか能力といったものは、一切問題になりません。神の約束した、恵みの1デナリオン、イエス・キリストの十字架の血のみが問題になります。 朝早くから、また夕方に来て1デナリオンとは不合理に感じるでしょう。もし、この夕方来た者の一時間だけ一生懸命働いた故の報酬であるなら、これも能力主義になりますが、そうではなく、問題は神の一方的な恵みなのです。神様は、全ての人に対して、惜しみなく、限りなく、その愛を注がれるお方なのです。これが神さまの気前良さなのです。これが私たちに対するその愛の深さ、広さ、高さ、長さなのです。                 牧師  三ヶ嶋 徹

10/22「全ての人を照らす救いの光」マタイ21:33~44

 主人は、農夫たちの強欲さや、この恐ろしいやり方を知りながら、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と大事な息子を危険な狼たちの中へ送ります。ところが農夫たちは、息子を殺せば、彼が相続するはずの財産が自分たちの手に入ると思い、息子を殺してしまうのです。これはイエス様ご自身が十字架にかかって死なれる(殺される)ことを予見して、このように語られたのです。

 ここには私たちには到底考えられないような主人の忍耐深さを見ることが出来ます。しかし、農夫たちは欲望に目がくらんで、ぶどう園を乗っ取る好機とばかりに、跡取り息子を殺します。しかしながら、農夫たちには大きな誤算がありました。それは権威を持つ主人は旅先で健在だということです。このたとえ話を聞いていた人たちは、最初、他人事として聞いていました。ですから主イエスの問いかけに対して、この農夫たちの悪行に憤慨しています。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」

 実は、「家を建てる者の捨てた石これが隅の親石になった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」と詩編118:22,23を引用して語られます。家を建てる者とは、ユダヤ人の宗教的指導者で、石とは救い主であるイエス様を指しています。彼らはイエス様が救い主であることを否定して、十字架に付けて殺してしまうが、その十字架の死が、神の国という新しい霊の家を建てる最も重要な基礎となると言う意味が含まれているのです。それ故にユダヤ人からこの神の福音は取り去られ、信じる異邦人のものとなり、祝福は彼らにこそ与えられるのです。

 何度も言いますが、殺された息子とは、主イエスご自身であり、父なる神によって復活させられるまことの救い主であります。主人を無視し、息子を殺してしまうのは誰でしょうか。 神さまはこの世界を創造されたときから、私たちのために必要はすべて満たして祝福してくださいました。しかし、わたしたち人間はこのことを忘れて、何もかも自分達の自由になるかのように錯覚する、愚かさを持っています。

 ペトロは後に、『あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神の恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」 (Ⅰペトロ4:10)と語っています。主の救いの光をあらわす者として用いていただきましょう。            牧師 三ヶ嶋 徹

10/29「キリスト者の自由」ヨハネ8:31~38

 「とどまる」という言葉は、ヨハネの福音書では大切な言葉です。信仰はなくなる危険性があるからです。なくなる危険性が何もなく、一度信じてしまえば後はもう一生楽をして暮らしていけるような財産ではありません。財産でさえ、贅沢をしていれば、なくなる危険性があります。まして人間の信仰は、常に祈り、信じ続けなければ、消えたり、別なものに変わったりします。もし一度信じれば一生変わらないというなら、人間は石か、人形のようなものになっているのでしょうか。神は、人間を石や人形のように、ましてやマリオネットのように操ろうとなさいません。「自由」という言葉を聞いた時、ユダヤ人たちは、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」彼らは「自由」という言葉をただ、表面的な意味で使っていました。確かに表面的に見れば、私たちは自由です。しかし、人間は、自分は自由だ、自由だと思っても、実際には「罪の奴隷」である場合が多いのです。しかも人間はたいてい、自分は罪人だということは認めます。しかし罪の奴隷であることを知りません。罪が自分の中心に居座っていることを知らないのです。人間は、いつも自分が大事に思っているものの奴隷になってしまいがちです。本日は、宗教改革記念礼拝でもあります。1517年、ドイツの田舎町ヴィッテンベルグの城教会の扉に、マルチン・ルターが免罪符に抗議して「九十五箇条の提題」を張り出したのです。ルターが聖書の中の真理として発見したのは、ローマ人への手紙1章17節「信仰による義人は生きる」でした。自分の罪の赦しのため、お金によって免罪符を購入すれば救われる。それは、聖書の真理どころか、大きな偽りでした。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と言われたイエス・キリストこそ、神が送って下さった救い主であり、唯一の真理なのです。この真理なるお方こそ、私たちに本当の自由を与えて下さるのです。ルターは、その教えの中で、恵みのみ、信仰のみ、み言葉のみと語りました。しかし、それと同様に「キリストのみ」と語ったのです。このイエス・キリストこそ、この十字架にかかられた方こそ、私たちを真に自由を与えて下さるのです。罪の奴隷からの解放、ここにこそ真実のキリストにある自由があるのです。    牧師  三ヶ嶋 徹

近畿福音ルーテル津教会
​ 牧師:三ヶ嶋 徹

​Copyright (C)2017 Tsu Luthern Church,

                                         All Rights Reserved.

​〒514−0822           

三重県津市南ヶ丘1−17−5

  Tel059-228-2814(fax059-228-9288)

 Email : tsu-lutheran@oboe.ocn.ne.jp