9/3「恐れからの解放」マタイ14:22~33

 イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。今イエス様は、弟子たちから遠く離れていてその姿は見えません。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。舟はもう湖の真ん中に近くにさしかかっていました。しかし、その舟にはイエス様はおられません。弟子たちだけで漕がなくてはならないのです。これはちょうど現在の私たちの教会の姿ではないでしょうか。今もイエス様の姿は見えません。しかし、キリストに従う生活は、イエスを見るのでなく、「見ずして信ずる」生活です。今、外からの危険が迫り、舟は波に飲み込まれそうになります。それなのにイエス様は遠く離れて見えないのです。しかしここには、一つの強制があることを忘れてはなりません。「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」たのです。つまり弟子たちの気が進まないのに、イエス様が強制して、弟子たちだけで向こう岸に行かせたのです。ここには、私たち人間の意志ではなく、別な意志、つまりイエス様のご意志が働いています。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。しかい彼ら弟子たちは、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。神が心に不在であれば、人はあらゆるものに恐怖します。しかし主は語られます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」復活の主は、弟子たちの前に、つねに「安かれ」と言って近づかれます。恐怖し、信仰の弱い者に、主は常にまず、平安の励ましを与えて下さいます。しかし一体全体、の世の中で、「わたしだ」と言って下さる方が、他にいらっしゃるでしょうか。「こうしなさい」、「こういう方法がある」と言う人は、いくらもいるでしょう。しかしご自分の人格を持って、現臨し、「わたしだ」という方は、他にはおられません。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。ある意味、何か突拍子もない事をペトロは言ったように受け取りますが、彼は「来なさい」と言うイエス様の言葉に従った行動です。つまり、「水の上を歩いてあなたのところに」「主のみもとに」行かせて下さいなのです。ただ彼は「強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。」のです。ペトロは沈み掛けました。主の第一の弟子が沈むのなら、私たちも沈むでしょう。しかし「主よ、助けて下さい」との祈りを持って、主に近づく者を主はしっかりとその御手を持ってとらえて下さいます。

                         牧師 三ヶ嶋 徹

9/3「キリストへの信仰によって」マタイ15:21~28

 この時代も、現在も、自分では、また周りの者にもどうにもならないような力で、私たちを苦しめる悪の力はあるものです。特に、サタンは吠え猛る獅子のように私たちキリスト者を襲います。悪霊は、周りの力を強大に見せ、神を小さく見せるのです。そして神に祈り、頼まないようにさせるのです。ところがこのカナンの女は、母親は諦めませんでした。ただただ主の憐れみに頼りました。体当たりでぶつかっていったのです。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」主が語られた言葉とは到底思えないような何か冷たく感じる言葉です。更にまた、子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない」。この「イスラエルの失われた羊」は、神の救いを必要とするイスラエル人であって、「子どもたち」とは、選民イスラエル人を指し、「パン」は神による救いの祝福、さらにユダヤ人は異邦人を軽蔑して「犬」と呼んでいたのです。つまり主は暗にこの女性の申し出を断ったのです。ところがその言葉に対しても怯むことなく「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と答えました。子犬と言われても腹を立てるどころか、謙虚にそれを認め、「食卓から落ちるパン屑はいただく」と言って、ユダヤ人に与えられた神の祝福のおこぼれにあずかりたいと、自分の心からの願いを表します。この人はどこまでも主の御前にあって謙虚でした。イエス様はこの女性の信仰を誉め、「あなたの願いどおりになうように」と語られた時に、この人の娘の病気は癒されました。

                         牧師 三ヶ嶋 徹

9/17「現代における信仰告白」マタイ16:13~20

 主が弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と聞かれた後、弟子たちに向かって、「あなたがたはわたしを何者だというのか」と聞かれました。これは私たちに一つの決断を迫っているのではないでしょうか。「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「エレミヤだ」人々はこう言っています。世の人々は「世界三大聖人の一人だと言っています。」。またこれまでも多くの人々が「私は聖書の教えを結構だと思っています」と言います。しかし、そうではなく、今、主イエス・キリストが、私たち一人一人に「あなたはどうなのか」、「私を誰だというのか」と、この世にあって、この時代にあって告白を促しておられるのです。どんな思想家も、哲学者も「あなた方は私を誰というか」と言うような質問はしません。それは彼らの教えが重要で、問題なのであって、その人の人格そのもの、つまり「私は誰?」と言うことは、問題ではないのです。この問いはイエス様ただお一人のみに当てはまるのです。嵐の湖で弟子たちが右往左往していた時、イエス様は「安心しなさい、わたしだ。恐れることはない」(マタイ14:27)と語って下さり、嵐のただ中に立って下さる救い主なのです。聖書の語る通り、イエスこそ真の人であり、真の神なのです。さてイエス様は、「あなたは」と、ただ個人的に聞かれただけではなく、「あなたがたはわたしを何者だというのか」と聞かれます。群れとして、共同体として、津ルーテル教会の一つのキリスト者の集まりとして「あなたがたは、今日この2017年9月17日、この時代に、この三重地区に建てられている教会として、この日本の地において、キリストを一体誰というのか」と聞かれ、問われているのです。「誰なのか」「何者か」と言う問いは、職業や関心事を聞いているのではなく、信仰の対象としてのイエス様ご自身を問うているのです。「イエス様はあなたにとって、あなたがたにとって救い主なのか、そうでないのか」。私たちはこの問いに対して、真摯に、世の人々に対して、信仰告白して行かなければならない者です!                    牧師 三ヶ嶋 徹

9/24「天の国で一番偉い者とは」マルコ9:33~37

 「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」つまり一番になろうとすることがいけないのではなく、その一番とは何か、その内容を理解していないのが問題です。キリストの弟子も一番になってもいいのです。ただ控えめにと、身を低くするだけが、信仰の道ではありません。しかし、その一番の人は「全ての人の後になり、全ての人に仕える者であれ」ということなのです。イエス様は決して、いわゆる遠慮とか謙譲の美徳を奨励しておられるのではないのです。逆に信仰者はいつも積極的でなければなりません。「仕える者」とは奉仕者の一番になることです。そしてそのことを示すために、一つの模範を示されました。『一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」』子供とは幼な子のことです。それは決して偉い者ではなく、立派で人の模範になるような人でもなく、むしろそれは「弱さ、小ささ、無力」の象徴ですらあります。今イエス様はこの無力の象徴である子供を自ら抱き上げ、みんなの真ん中に立たせました。そしてこの子を「受け入れる」ことを求めました。イエス様はまた「取税人や罪人」をも受け入れました。彼らと共に食事をしました。姦淫の女を受け入れました。これらの無力の象徴に過ぎない者をも受け入れました。そこには十字架のお姿があります。「父よ、彼らをお許しください。彼らは自分で何をしているのか、分からないでいるのです」と十字架の上で祈られたイエス・キリストの姿があります。そこではまさしく十字架につけた人々までも受け入れられるのです。

                         牧師 三ヶ嶋 徹

近畿福音ルーテル津教会
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