7/2「み言葉による礎」マタイ 7:15~29

 

 マタイ7章13節には「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこからはいる者が多い。」とあります。今日この色々な教えが氾濫している日本で真実にキリストに従って生きることは、何と難しく、狭い道でしょう。普通私たちは、「多い」とか「広い」、「大きい」というものが、価値基準になったりしやすいものです。また、みんなが行くから、私も行く、かつて「みんなで渡れば怖くない」と言う言葉も流行りましたが。民主主義は多数決ではないのです。しかし、神は少数であっても正しい方を選んで下さいます。人の数が偶像になってはならないのです。もし、周りを見て、大勢だからやるというなら、そこには人間だけで、神はおられません。たとえ偏屈だと言われても、考え方が古いと言われても、問題はそれが神の国に導く道であるかどうかなのです。

 更に、ここでもう一つのたとえ話を主は語れます。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」、「聞いて行う」者と、「聞いても行わない」者との、違いがはっきりと語られています。ここでは、聞くことと行うことが一つとなっています。私たち、良い説教や証しを聞いて満足してしまっていないでしょうか。私たちは観客席に座ってお芝居を観ているのではないのです。私たちは、一緒に舞台に上がって演技をしないといけないのです。また、グランドに出て、主と共にプレーをしないといけないのです。それが、キリスト者の生き方ではないでしょうか。 

                                牧師 三ヶ嶋徹

8/6「神のみ言葉の力で生きる」マタイ13:1~9

 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。神の言葉の種は、私たちの心に蒔かれています。ここに四種類の土地がありますが、どの土地にも、御言葉の種は例外なく蒔かれています。どんな地でも種が蒔かれなかった場所はありません。ただその違いは、御言葉を聞く態度です。それは性格や環境の相違ではありません。

 私たちはよく、「福音にとって日本は石地である」とか、「キリスト教にとって日本は沼地である」とか言って、聞く態度ではなく、社会的な環境のせいにしてしまうことがあります。その時、私たちは神の御力を信じているのではなくて、人の運命や宿命を信じていることにならないでしょうか。生まれつき、キリストを信じにくい性質とか、信じやすい傾向があるのではなくて、私たちのとる態度によって、石地ともなれば、茨ともなり、良い地にさえなれるのです。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。」これは聞いても理解しようとしない人です。これは結構頭の良い人で、御言葉に対しては、不感症で、踏み固められた心の頑固な人です。  

 「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」不思議なことに、良い土地とは、何も余計な物を持たない、ただふつうの土ばかりの土地なのです。考えてみると、何か特殊な力や優秀な資質を持っていることではなく、石もない、固められてもいない、茨もない、何もない姿、それが御言葉の種を生長させる良い土地なのです。畑を開墾するとは、全ての邪魔物を取り除く作業に過ぎません。信仰とは、何かある特殊な能力を持つことではなく、神の御前において、空っぽになることです。筒一杯の状態では、受けるどころか、神様の恵みが外に溢れてしまいます。まずはしっかりと受け止めて、何百倍にも実を結ばせましょう!            

                         牧師 三ヶ嶋 徹

8/13「福音の種が必要な世界」マタイ13:24~35

 「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。」後の解説によると(36~43節)、良い種を蒔くのは、人の子イエス様で、畑は世界です。しかし僕たち、つまり私たちは、「良い種を畑にあなたご自身が蒔かれたではありませんか。何ゆえにこの世はどうしてこんなに多くの悪がはびこるのでしょうか」こう言って嘆き、悲しむのです。それどころか、良い実を結ぶはずの信仰者の集まり、教会の交わりの中に、毒麦や雑草が、どうして生えるのかと不思議に思うのです。しかし、神様が蒔いたところには、何と驚くことか、必ず悪魔も蒔いてくるというのです。そして私たちがより神様に近づこうとすると、より悪しき者たちは引き離そうと力を振るうのです。しかしこのことを忘れてはいけません。聖なるものは、いつも汚れたものとの戦いの中で育てられていくということなのです。イエス様の昇天の時、雲の中に上げられて行く主をいつまでも仰ぎ見ていたのです。しかし、天は福音を必要としていません。彼ら弟子たちはこの世、この世界に、つまり石地の心を持った人々に、茨の心で日々悩み嘆く人々に、福音の種を携え、出て行かなければならないのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1:8)。

 『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』そして『では、行って抜き集めておきましょうか』です。この問いは、この世に悪の存在する理由を聞いています。主人の答えは『敵の仕業だ』でした。この世界には、世界を良くお造りになった、神様に敵対する意志があるというのです。しかしこの畑が神の畑であることを覚えておきましょう。たとえどのような敵が現れたとしても、たとえ悪魔が存在していても、毒麦が蔓延していたとしても、この世界は依然として「神の畑」であり、決して「悪魔の畑」になることはないと言うことです。この世界の罪を負われるのは十字架の主のみです。イエス・キリストのみです。このたとえにあるように、最後には火で焼かれる運命にあるのです。私たちはこのように、十字架を負われた主が、悪に対しても主であり、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られた限りない憐れみと愛とを忘れてはなりません。

                        牧師 三ヶ嶋 徹

8/20「天の国と、この地上」マタイ13:44~52

 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。」聖書において真理はつねに隠された形で存在すると言っても過言ではありません。特に神の愛は、あの大工の息子ナザレのイエスと、ゴルゴタの丘の十字架に隠されている、否、現されたと言えるでしょう。ところが、ユダヤ人たちは、このイエス様の姿に躓き、その十字架を嘲笑うのです。しかしイエス様は語ります。信仰をもって、隠された宝を探す者は見出すことが出来ると。そして、「見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」この人が、土地の所有者に、宝が隠してあるのを告げないで、これを買い求めるのは、あまりにも利己的に映ると思いますが、しかし、これは譬であって、比喩ではないということです。比喩であれば、事柄の細部にわたって、ひとつひとつが意味を持っていると言えるでしょう。しかし、譬は、それが語ろうとする大きな真理を指さし、途中のすじみちを重視しないという、特性を持っていると言えるでしょう。特にここでは、この宝のために持ち物をみな売り払うこの人の信仰の情熱が問題なのです。またそこには、自分の全てを犠牲にしても悔いのないほど、価値ある物であることが示されているのです。「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると」。前の譬では、宝が偶然に見出されたようになっていましたが、この譬では探しているうちに見出されています。いずれの場合にも、宝を見出したことに強烈な感動があります。彼らは一切を捨てて、この宝を自分のものにします。それぞれに信仰に入った動機は違うでしょう。商人が意識的に探し求めて発見するように、教会の門を自らが叩いて、神の国の福音の真理を知った人や、偶然何かの機会に聞いた人もいるでしょう。或いは長い間、救いの道を求めていて、ついにその救いの真理に辿り着いたような人もいるでしょう。神様の愛の導きの中にそれぞれに、自分の全てに代えてでも、その機会を逃さず、福音を聞いて救われたのではないでしょうか。

                          牧師 三ヶ嶋 徹

8/27「あなたの手にある物を主に」マタイ13:44~52

 「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」私たちの信仰を試みるような言葉を投げかけてこられます。が、同時に私たちを支えられます。主は私たちを試みられる時、すでに与えようとしておられるのです。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」私たちは「私たちには出来ない」と言うことが、「私たちに何もすることがない」ではありません。何故なら、私に不可能だと言うことは、イエス様にとっても不可能ではないからです。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」この言葉は、ギリシャ語では「ない」と言う否定形から始まっています。しかしイエスさまは、この否定形を積極的な肯定形に変えられます。「パン五つと魚二匹ある、それをここに持って来なさい」と言われます。私たちは本当に持っていないのでしょうか。パン五つと魚二匹はあります。ただそれを出さないのではないでしょうか。私たちは良く現状分析をします。統計やアンケートを採ったり、そして分析します。しかし、そこから何が出てくるのでしょうか。分析し、研究しますが、参加しません。信仰とは、そうではなく、主が事を成しておられる。その主の御業に参加していく、たとえ小さな才能、賜物、能力、時間、献げものであっても、小さな五つのパンと二匹の魚を持ってでも主の御業に参加することです。「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。」ここでイエス様は天を仰いで祝福されました。どんなに小さなものであっても、自分の手にの中だけで留まっていればそのままでしょう。しかし、一たびイエス様の手の中に渡れば、実に主ご自身が豊かに祝福して下さるということです。

                            牧師 三ヶ嶋 徹

近畿福音ルーテル津教会
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