6/4「キリストの証人として生きる」ルカ24:44~53

 

 罪とその死に対する復活の主の勝利は、地の果てにまで宣べ伝えられねばなりません。彼ら弟子たちはこの使命のために十分な備えが必要でした。起こったこと全ては聖書に証言されていることだという彼らの確信が必要だったのです。それはまた、旧約聖書の啓示、律法と預言者と諸書が語ってきたことの成就だったのです。しかしさらに、聖書はメシアが死んで再びよみがえることだけではなく、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ことを証言していたのです。そしてこれらのことは、聖書を通して成されることなのです。聖霊は私たちの聖書理解を可能にし、私たちの証言を力強く用いてくださるのです。イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。また使徒言行録1:9では「イエスは彼らが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」とあります。そうすると御使いが現れて、「同じ有様でまたおいでになる」と告げたのです。イエス様の十字架、復活、それに続く昇天は、ある意味で神様の救済の歴史の成就と終わりを告げることになったでしょう。しかし、それは第一幕が終わっただけであって、新たな第二幕の始まりであったのです。つまり、今や弟子たちが宣教の担い手となって、キリストの証人となって地の果てにまで出かけて行かなければならないと言うことなのです。かつて主は「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」(ヨハネ14:12)と言われました。確かに主を中心とした宣教活動は、ガリラヤを中心に12人から始められました。しかしその後、弟子たちを通してペンテコステの日には三千人が救われ、その後、世界の果てにまで宣教の御業が拡げられて行ったのです。もちろんそれは弟子たちの働きだけがその実を結んだのではなく、主のご用のために彼らを満たし、助け、導いて行ってくださった聖霊の働きなのです。故に、使徒行伝は聖霊行伝とも言うのです。 あなたもキリストの証人なのです。 

                                    牧師 三ヶ嶋 徹

6/11「神の民エクレシアの誕生」使徒2:1~21

 

 五旬祭とは、過越の祭りの第二日から七週後、すなわち五十日目(ギリシャ語でペンテコステ)に守られていて、旧約聖書では「七週の祭り」「小麦刈りの初穂の祭り」などと呼ばれています。後代のユダヤ教では、この日をシナイ山において、神様から十戒を与えられた記念日としています。過越の祭りはイスラエル民族の誕生で、刈入れの祭り(五旬祭)はイスラエルの精神(宗教)の誕生であったと言えます。このような意味深い日に、イエス様の弟子たちに聖霊がくだると言う不思議な出来事が起こりました。じつは、この日の出来事はこの日こそ「新しい神のイスラエル」(口語訳ガラテヤ6:16)、すなわち、教会の誕生を記念する日となるのです。イエス様の十字架、復活、昇天を経験した弟子たちは、「イエスは主である」と言うことの証人となるために十分な心備えをし、「一つになって集まって」(2:1)、「心を合わせて熱心に祈っていた」(1:14)のです。「一つになって集まっている」と言うことは、「教会の集まり」意味します。彼らは「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(1:5)と言う主の約束のために教会の集会を守っていたのです。約束の聖霊は、主の約束を心から信じ、熱心に待つ人たちに与えられたのです。その日に起こった激しい風は、神様の霊をあらわし、神の霊は、活発に燃える炎の霊であり、それが分かれて、舌の形を取って弟子たちの上にとどまったことは、彼らが、神様の言葉を語るところの神の舌を与えられたことを示しているのではないでしょうか。 

                                    牧師 三ヶ嶋徹

6/18「主イエス・キリストの祝福」マタイ28:16~20

 

 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」主は御子の権威において弟子たちに命令を下しました。その第一は、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」これは全世界に伝道することを意味しています。イエス様の生涯においては、イスラエルの民に伝道することが主体でした。しかし、イエス様の復活後はその枠が外され、あらゆる国の人々に福音を宣べ伝えるよう命令が与えられたのです。こうして弟子たちは、「地の果てにまで」宣教のために「出て行く」のです。そして何よりもイエスの弟子をつくることでした。第二は「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」なさいという命令でした。これは単に儀式的にバプテスマを授けると言うことではなく、神様との霊的な交わりに入ることを意味しています(ローマ6:3,4)。一人々の信者が、三位一体の神と生きた霊の交わりを持つことが出来るようになる時、そこに真の教会が形成されるのです。第三は「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」と言うことです。ここには教会の教育的使命が示されています。イエス様の教えが正しく教えられて、信者の信仰が御言葉に従って成長していかなければ、真の教会成長はあり得ません。最後にイエス様は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言って、弟子たちを励まされました。この使命は、弟子たちの力だけでは到底完遂することは出来ないのです。このマタイによる福音書の始め、イエス・キリストの誕生の告知においては「インマヌエル、神は我々と共におられる」とありました。そしてさらに「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)とありました。そして今や、父なる神のもとに行かれる主は、再びお出でになる約束の故に「世の終わりまで」共にいることを宣言されたのです。

                                  牧師  三ヶ嶋 徹

6/25「まず第一に求めるものとは 」マタイ6:24~34

 

 「明日のことまで思い悩むな。」と言われているのに、実は現代人の頭の中は、明日のことで一杯で、その分だけ現在が疎かになっているのではないでしょうか。「その日の苦労は、その日だけで十分である。」イエス様が子として父なる神さまに従われ、その御旨に一切を委ねられたことを覚えましょう。父がその愛する子に必ずパンを与え、決して石やヘビを与えないことを信じましょう。ここには、思い悩まない模範として、空の鳥や野の花が上げられています。「空の鳥をよく見なさい。」「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。」いったい私たちは、空の鳥や野の花から、何を学ぶのでしょうか。それは彼らの「無力さ」を学ぶのです。鳥は「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。」いや、出来ないのです。しかしイエス様は、その「出来ない」無力さから学びなさいと言われます。今、イエス様が「注意して見なさい」と言われるのは、彼らの無力の中にある神の無限の配慮なのです。使徒パウロは、自分の無力さを知った時『すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』(Ⅱコリント12:9)と語りました。このように、私たちは神の前に自分の無力さを知ったとき、一番強いのです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」「何よりもまず」の「まず」は、第一にという意味です。第一を真に第一のものとする時、第二、第三は添えて与えられるのです。ギリシャ語では絶対的にいう強い意味があります。何よりも絶対的になのです!

                                 牧師  三ヶ嶋 徹

近畿福音ルーテル津教会
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