「われらを担われる神」 イザヤ46:3〜4

 きょうのみ言葉から「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、 あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず担い、持ち運び、かつ救う」との神の約束を聞きます。預言者よるこのみ言葉は、バビロンという異郷に曳き行かれた民に語られたものでした。彼らは、預言者たちのたび重なる警告に耳を貸さず背き続け、ついに神の厳粛な審判を受け捕囚という境遇に置かれました。紀元前600年ほども前。民はそれぞれに「わが道は主に隠れている、わが訴えはわが神に顧みられない」と言い、「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と嘆くのみでした。自業自得で神の裁きを受けましたが、神はご自身の民を忘れるどころか、その背いた民を試練を経て再度ご自身のものとしようとされたのです。なぜでしょう。それはきょうのみ言葉どおり、神がイスラエルの民を「造られた」からです。民が神に背いて悲惨に落ちたとしても神は民のいわば「製造責任」を負われたのです。このみ言葉から重要なことを学びます。神が「造られた」のは、全体としての民のみではなく、一人ひとりもそうでした。エレミヤは、預言者の使命を受けたとき神から「わたしはあなたを母の胎に造る前から知っていた」という言葉を聞きます。また詩篇には「あなたはわが内臓をつくりわが母の胎内でわたしを組み立てられました」とあります。とき至って、いま、主なる神を信じるようになった私たちそれぞれも、たしかに「造られた」者です。偶然に人として生まれ、たまたま人生を歩んでいるというのではくいのちの喜びと感動に生きる者として神に望まれて存在するようになったの者なのです。私たち自身もまた歩みの中でみ心に背き、やる瀬の悲しみや痛みの中に悶々とすることもあります。信仰を失いそうなときもあります。しかし神は、私たちの至らなさの責任を主イエスの十字架ですべて「尻ぬぐい」をし変わらずご自身のものであることを確言してくださっています。主イエスは、迷い出た一匹の羊を見出し、自分の肩に担い家路を急ぐ羊飼いのことにご自身をたとえて語っておられます。ここに神のご愛が示されています。神は、「私たちを造ってくださった」がゆえに、白髪になるまで、いやそれを越えて永遠の命に至るまて、私たちを担ってくださるお方です。

                          神戸ルーテル神学校  橋本昭夫先生

「主こそ真の人生の導き手」 イザヤ10:1〜16

 イエス様はまた別の福音書では「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。」(マタイ7:13,14)また「狭い戸口から入るように努めなさい」(ルカ13:24)とも言われます。どうして多くの人は、門から入らないのでしょうか。なぜそこから入る人が少ないのでしょうか?それは狭いからです。では「狭い門」とは何でしょう。狭い門は自分が小さくなって、身を低くしないと入れないのです。この門はキリストの十字架と言えるでしょう。この後、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と主ご自身言われます。これはまさに十字架を意味している言葉です。真理は十字架にあります。パウロの言葉で「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものがあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)。けれども十字架とは、主が負うものであるばかりでなく、私たちが負うものでもあります。イエス様はマタイによる福音書で「わたしについいて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)と語っておられます。それは自分に死んで神に生きる道にほかなりません。したがって、この十字架という門を通らない者は、盗人であり強盗です。それはイエス・キリストが、苦しみつつ通られた門を素通りしていくからです。最後に、良い羊飼いが、「良い」のは、私たちのために自分の命を捨て、私たちにより豊かな命を得させてくださることにあります。良い羊飼いの良さは他者中心にあります。雇い人の羊飼いはそれに比べて羊を心にかけていないからです。現代はあまりにも偽羊飼いが多いことか、真の羊飼い、主の声に聞き従いましょう。

                                    牧師 三ヶ嶋 徹

「真理の道なるキリスト」 ヨハネ14:1〜14

 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」これまでに多くの宗教家や哲学者たちも、道について、真理について語ってきたことでしょう。しかし自らを指して「道であり、真理であり、命である」と言われたのはイエス様ただお一人です。主イエス様は道について、真理について、教える為にお出でになったのではありません。ご自身を世の人々にお示しになるために来られたのです。

キリスト教は排他的だと批判されることがよくあります。しかしそれはあくまでも人間の宗教感情の問題であると思います。なぜなら、人々の言う排他的性格の諸要素がキリスト教の正しさを証明する根拠となっているのです。「真理」という言葉一つをとっても言えることでしょう。真理はというものは常に排他的性格を持っています。「これが正しい」と主張することは、必然的にそれ以外のものを排斥することになるからです。イエス様のご自分に関する主張が信頼に値するか否かは、イエス様のご人格と生涯に照らして冷静に判断することが大切です。

神を知りたければ、イエス様を見ればよいのです。神の言葉を聞きたければ、イエス様の言葉を聴けば良いのです。神の愛を知りたければ、イエス様の愛を見ればよいのです。私たちは、イエス様の業を、愛ある行いを見るのです。そうすればそこに働く神の力を見ることが出来ます。そこにはまた、イエス様を世にお遣わしになった神の臨在と力があかしされていることが分かるはずです。事実神はイエス様の内に働いておられるからです。初代教会の信者たちは、「イエス様の言葉」を聞いて信じたのです。それは今日の私たちの時代も全く同じであると言わなければなりません。イエス様の言葉は今、聖書と言う形をとって私たちに語られています。この聖書の言葉を読んで、聞いて、信じられなければ、たとい肉眼でイエス様を見たとしても決して信じることが出来ないでしょう。重要なのは、肉の目で見ることではなくて、心の目で見ることです。御言葉によって、信仰の目を与えていただきましょう。

牧師 三ヶ嶋 徹

「真理の道なるキリスト」 ヨハネ14:1〜14

 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」

人間は、愛する人の言いつけを喜んで行おうとするものです。言いつけを行うことによって相手に喜んでもらおうとするのです。それと同じでイエス様を愛していることは、イエス様の掟を守ることによって証ししなければなりません。さらにイエス様は、とりなしの祈りの約束に加えて、御霊をお送り下さることを約束されました。ここで三位一体の一位格である聖霊は「弁護者」と言われています。また、必要に応じて助言を与える親しい友人を表す言葉です。それはまた「慰め主、助け主」とも言われています。ギリシャ語では「パラクレートス」、傍にあって呼んでくれる者という意味です。仮に私たちが裁判をするなら、必ず弁護士をつけるでしょう。その弁護人は、私たちよりも法律に詳しく、私たちを不法から守ってくれ、また私たちの代弁をしてくれます。今、天に昇られるようとするイエス・キリストは、聖霊と言う弁護者を残して行かれます。それはまた「真理の霊」とも言われます。私たちだけでは何も出来ない者です。しかし、イエス様を信じ、祈り求める時、聖霊は、慰め、助け、さらに弁護士、そして真理を教えてくれるのです。

「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」口語訳聖書では、「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。」とあります。明治期の慈善事業家であって「児童福祉の父」と呼ばれた石井十次先生は、多くの孤児を預かり、彼らの為に岡山孤児院を設立した人物で、その生涯において彼が育てた孤児は三千人を超えると言われています。私たちは、ややもすれば「他人の不幸を見て見ぬふりをする」という自己中心的な思いが強い訳ですが、世の中から弾き出された孤児達を、一人ひとりの「人格」として認め教育し、世の中へ送り出す事に生涯を捧げた、石井十次先生の人間を愛する心と信念を通す行動力は、現代のキリスト者もおおいに見習わなければならないのではないでしょうか!

                                   牧師  三ヶ嶋徹

近畿福音ルーテル津教会
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