「人をすなどる漁師への招き」 2017年2月5日      マタイ4:18~25

 

 イエス様は一人ずつ弟子をお招きになります。ちょうど羊飼いが羊の名を呼んで連れ出すように(ヨハネ10:3) 、私たちは召命、招きの時、ひとりひとりの名前が呼ばれていることを思い起こしましょう。決して十把一絡げではありません。あの一度に三千人が洗礼を受けた、ペンテコステの記事でも、聖霊は、「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒言行録2:3)。また、ペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」(使徒言行録2:38)とすすめています。4章の17節までは、イエス様のみ焦点があてられていましたが、ここで初めてイエス様とその弟子たちの関わりがでてきます。その始めが、「わたしについて来なさい。」という招きの言葉なのです。「聞きなさい」とか「読みなさい」とか「学びなさい」でもありませんでした。「わたしについて来なさい。」です。しかも、イエス様の教えに従うのではなく、イエス様ご自身に従うのです。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。弟子たちはすぐに従いました。神様の招きは、突然起こり、私たちにすぐに服従を求めます。それは人間的に見て、価値があるとか、得になるとかではなく、そのような計算の結果でもありません。私たちの召しには、見積書や計算書はないのです。私たちの理解力を越えた神様のご計画なのです。                                      

                               牧師  三ヶ嶋 徹

「私たちは地の塩、世の光」 2017年2月12日   マタイ5:13~16

 「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「義に飢え渇いている人々」に呼びかけられ、「天の国はその人たちのものである」と語られました。しかし今、そのように欠け多い私たちに向かって、さらに主は呼びかけられました。もしあなたがたが、わたしを信じるなら、「地の塩・世の光」であると言われます。私たちはキリストに捉えられ、キリストを信じることによって、天国を待ち望む者になったのです。それはただ天を夢見ている者ではなく、この「地」や、この「世」に使命があり、ここに遣わされているということです。しかも「地の塩」「世の光」は、食物に味を付けたり、腐敗をふせぐ塩であり、暗い時代に輝く光なのです。今日、味気のない、潤いのない無気力な時代、腐敗・堕落し、暗い時代と言われます。まさに内側には味気がなく、外側は暗さがみなぎっているようなところ、これが私たちの住む地であり、世なのです。塩も光もいつも他者への働きかけの中で存在し、意味をもってきます。塩、光それ自体ではあまり意味のないものかも知れません。塩の塊をそれだけで食べる人はいません。光も升の下に置くなら、光は他を照らすどころか、空気を失い自らの光も失ってしまいます。あなたは今、塩であり、光であると言われます。つまり他を味付け、他を照らすものとして呼びかけられているのです。「塩となれ」、「光となれ」との命令ではなく、今そのままのあなたが地の塩、世の光であると言われます。イエス様が共におられるあなただからなのです。                       

                               牧師 三ヶ嶋 徹

「キリストの命に生きよ」 2017年2月19日       マタイ5:21~37 

 イエス様の福音の中心とは、それは信仰によって義とされることです。そのため、ユダヤ人の目からは律法違反をしているように見えることが多かったのでしょう。しかし、律法によって明らかにされた罪を解決することは、当時は明らかに究極的には律法の成就であって、旧約聖書の成就と言えます。ところが、律法によっても、預言者によっても解決できなかったことを真に解決するために、イエスは来られたのです。それ故に、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイ5:17,18)律法学者やファリサイ人とイエスとの間には、考え方に大きな開きがあったと言えます。ユダヤ人の指導者は、律法の精神を忘れて表面的な文字に固執していました。そのうえに旧約聖書には実際には書かれていないことまで付け加え、それを言い伝えとして受け継いでいたのです。それを厳格に守る努力をし、それによって神に義と認められていると自認していました。これが20節の「法学者やファリサイ派の人々の義」なのです。しかし、イエス様はこれに対して、神の目に罪人であることを認めて罪を悔い改め、イエス・キリストを信じ、律法の基本精神に立ち返って正しい生き方をするよう聴衆に語られたのです。

​                            牧師 三ヶ嶋 徹

「キリストの愛を示す者に」 2017年2月26日      マタイ5:38~48

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と言われます。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」というのは、レビ記の言葉です。しかし「敵を憎め」と言う言葉は聖書にはありません。私たち人間の愛は、すぐに敵・味方を分ける愛と言えます。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」(エフェソ2:14)とは、どういう意味でしょうか。この敵意と言う隔ての壁、憎んであまりある者を、どうしてこの壁を乗り越えて、愛することが出来るでしょうか。いや、私たちの愛の中にさえ、この「隔ての壁」が張り巡らされているのではないでしょうか。愛はいつも美しいものだけだとは限りません。本当の愛とは、愛の中にさえ潜む敵意と言う隔ての垣根・壁を乗り越えてゆく、絶えざる戦いなのです。その戦いの根拠をイエス様は十字架において示して下さいました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈られたからです。今、あなたも迫害する者の為に祈りなさいと言われます。祈りにおいて、私たちは敵のもとに、敵の傍らに歩み寄るのです。そして敵の為に神の御前に跪き、とりなしの祈りを捧げるのです。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」父の愛は全ての者にも与えられています。  牧師 三ヶ嶋徹 

近畿福音ルーテル津教会
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