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​2021年10月のメッセージ

2021.10.3「神が結び合わせた者と共に歩む」 マルコ 10:1~16 

 さて、創世記のみ言葉にあるように、神が合わせた一体の者を、人が離して良いかと言うと、それはもちろん「否」です。しかし、ファリサイ派の人たちは、律法の中に、「離縁状」がある以上、聖書では離婚を認めているのだと、結論付けます。けれどイエス様は、そうではないと言います。ここには「正しい」ことと、「赦されている」こととの違いがあります。結婚とは、神の創造の御業による「愛」によって結ばれるものです。ところが、別なことから、結ばれる場合があります。財産とか美貌とか、家の事情とか、愛以外のものによって結ばれる結婚です。それは早晩破綻をきたすことが多い場合もあります。そこで、もう一度「正しい」神の愛に立ち戻って考えることが必要なのではないでしょうか。元々離縁状は、モーセ五書の申命記によると「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」(申命記24:1)との、み言葉から来たものでした。この命令は離婚の正当性を認めたものというよりは、むしろ女性の立場を守る人権擁護の精神から出て来ています。つまりそこには、夫の勝手な都合で離婚するのではなく、妻の恥ずべき行為のあった時、その理由を書いて正式に離婚せよと言うのであって、いくらかでも男の乱暴な行為、行動を抑えようとするものでした。しかしイエスさまは、「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。」と言われます。    

   そこでイエスさまは、モーセの律法よりも遡って、創世記の天地創造の初め、夫婦のその麗しさについて語られたのです。神は言われます。「人は独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」それゆえに彼らは二人ではなく、一体です。だから神が結び合わせた者を、人は離してはならないのです。       牧師 三ヶ嶋 徹

2021.10.10「気づきを与える主」  マルコ 10:17~31 

  ある人がいました。おそらくまじめなユダヤ人で、子どものころから、掟(律法)を大切にしてきたのでしょう。しかし、この人には、自分が永遠の命に与る実感がありませんでした。そこで、イエス様なら、自分に足りないこと、自分がなすべきことを教えてくださるに違いないと走り寄りました。しかし、イエス様の返答はとても残念な内容でした。それは「掟を守る」という、この人にとっては、これまでやってきたことだったからです。しかし、実際には、この人は掟を守っていなかったのです。原語には日本語に訳されていない言葉があります。それは20節の「先生、そういうことはみな、子どもの時から〔自分自身のために〕守ってきました」です。結局この人にとっての善行は、〔自分自身のために〕であり、他者を利用していたのです。

 人は、純粋に他者のために生きることができないのです。たくさんの財産を持っていたこの人が、「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言われたイエス様の言葉に、気を落として立ち去らなければならなかったことがそれを証明しています。そのような人間が、自らの行いによって自らを救うことはできないのです。この人に欠けていた一つのことはなんでしょうか。それは、自分を救ってくださる神の存在がすっかり抜け落ちていたことでした。救いは神によって成し遂げられることです。そのことへの信頼がこの人には欠けていたのでした。救われた者が愛の行動を生み出していくのであって、行動が救いをうみだすのではありません。行いではなく、いつも神様と私の関係に焦点が合っていること、それが最も大切なことなのです。

 そのことに気づくことができなかったこの人に、イエス様はどの様な態度で関わられたのでしょうか。21節を直訳するとこうなります。「イエス様は彼をじっと見つめた後で、彼を愛した。そして彼に言われた。『あなたは一つ欠けている。今すぐ帰って、持っている物を売って、貧しい人にあげなさい。すると天に宝物を持つ。そして、さあ!わたしの後についておいで。』」。イエス様は、神を神とすることができない罪人を、じっと見て、愛してくださったのです。掟に生きることができないことを自覚する者は、キリストへと駆り立てられます。そして、そのキリストに従う者は、神との正しい関係に生きる者へと変えられるのです。                                  補教師 瀬戸幸治

2021.10.17「石ころと神さまのたすけで」  サムエル記上17章41~47節 

 神の民イスラエルの前に、ゴリアテという大きな障害が立ちはだかりました。私たちも避けることができない、何か大きなことに阻まれることがあります。

 体格に恵まれたサウル王ではなく、少年ダビデがゴリアテと戦いました。この二人の違いは何でしょうか。それは、サウルはゴリアテの大きさを見ていましたが、ダビデは神の確かさを見ていたのです。

17:37をみるとそれがわかります。神は獅子の手、熊の手から守られたので、ゴリアテからも私を守られると、ダビデはこれまでの神様の確かさに、未来の根拠を置いたのです。また、ダビデは47節で「この戦いは主のものだ」と言います。「戦いは主のもの」これが、ダビデの人生の秘訣なのです。私たちはどうでしょうか。自分の力で人生を切り開こうとしていないでしょうか。また自分のやり方で戦おうとしていないでしょうか。戦いは全知全能の主のものであることを私たちは覚えておきたいものです。

 さらに、ダビデとゴリアテの話にはイエス様が隠されているのです。ダビデが放った一つの石によって、ゴリアテは倒され、イスラエルはペリシテ人から解放されました。「石」はメシア(救い主)を表します。ゴリアテは「罪(死)」なのです。キリストが罪(死)を打ち破り、神の民はそこから解放されるのです。少年ダビデの信仰を描いたこの話は、私たちが不可能と思える状況に直面しても、神様がどのように勝利を与えてくださるのかを示しています。そして、これは、イエス様が十字架の上で、あらゆる力に対抗して

勝利してくださったことを予表させるものであります。ゴリアテに石で立ち向かっていくダビデの姿は、

誰が見ても愚かな姿だったかもしれません。十字架のイエス様も、まるで失敗のような姿です。     しかし、聖書にはこう書かれています。Ⅰコリント1:18「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては

愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」とあります。私たちは自分の考えや、方法に

よって生きるのではなく、死に打ち勝ってくださったイエス様の十字架、私たちのために戦ってくださる

神の力によって生きるのです。                       補教師 瀬戸 幸治

2021.10.24「主の力に信頼して」  エレミヤ31:7~9、マルコ10:46~52 

 「風邪は万病の元」と言いますが、孤独も同じようです。あるクリスチャンの精神対話士が『すべての悩みの正体は「孤独感」である』と言われていました。苦しみ、悲しみ、寂しさ、不安、自分の存在不安(自分は生きていてもいいのだろうか、私は望まれて生まれてきたのだろうか)、自己卑下、絶望、そういったものはすべて「孤独感」からくるということです。したがって、孤独の中にいて心のケアが必要な人に、最も大切なことは「対話」(人格と人格の交流、聴いてもらえる、そのままの自分を受け止めてもらえる)ということだそうです。そして、人は、誰にも言えなかった本当に言いたいことを言えた時に、本当の自分に出会い、人生の主人公として歩んでいくことができると言うことでした。  

 ありのままの自分を受け止めてくれる人はいますか?そう聞かれると、「そんな人はいないなあ」と思うかもしれません。しかし、私たちは全員、そのような存在を持っているのです。それは、神様です。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう』(創世記1:26)」。神様は、人格と人格の関係を持つために人を創造されました。私たちは、神との対話の関係に置かれているのです。そして、イエス様とバルティマイとの出来事は、まさにその実例と言えるでしょう。盲人で物乞いのバルティマイは「道端」にジッと座り続けていた人でした。ユダヤの人々にとって、バルティマイは、自分の善行の為に施しをする「対象物」だったことでしょう。つまり、彼は、人格と人格の交流のない、孤独の中に埋没していたのです。 

 その彼の叫びを聞き、「道の中」に呼び出してくださったのが、イエス様です。バルティマイは、よほどうれしかったのでしょう。目が見えないのに、大事な生活道具の上着を投げ捨てて、飛び上がって、イエス様の方に来ました。その彼にイエス様は、「何をしてほしいのか」と、上から目線でもなく、偉そうにでもなく、自分と同じところにおりてきてくださって、人格と人格の交わりを持ってくださいました。そこから、彼は大きく変わりました。最初、バルティマイにとって、イエス様は「ダビデの子」でした。それが「先生(私の主!)」になったのです。また、それまで彼は「わたしを憐れんでください」と言っていたのが、「目が見えるようになりたいのです」と、人生の主人公として歩みたいと願う者に変えられたのです。彼は、イエス様に従って、「道を歩む者」となったのです。 

 イエス様が、神との人格的交流から断絶し、絶望していた者を「道端」から「道の中」に呼び出してくださり、「道を歩む者」にしてくださったのです。「道」とは、「まっすぐな道」(エレミヤ31:9)です。洗礼者ヨハネが言った「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」(マルコ1:3)の「道」です。そして、その道は十字架に続いている道なのです。その先頭をイエス様が歩まれています。この「道」に命があり、私たちが本当の意味で自分の人生を歩むことのできる「道」なのです。ですから、「イエス様を見失った」「孤独を感じている」そういった時にこそ、礼拝に与っていただきたいのです。バルティマイが叫んだ、「わたしを憐れんでください」、この祈りは、そっくりそのまま、礼拝の「キリエ」だからです《キリエ(主よ) エレイソン(憐れんでください)》。このように叫ぶ者を、イエス様が、再び「道」に呼んでくださいます。                              補教師 瀬戸幸治

2021.10.31「10月31日は宗教改革記念日でした」 

 宗教改革記念日は、1517年10月31日に、ドイツの修道士マルティン・ルターがヴィッテンベルクの城教会に『贖宥の効力をめぐる討論』と題された『95箇条の提題』を掲示したことを契機に始まった宗教改革を記念する日です。

 宗教改革は当時のローマ・カトリック教会からプロテスタント教会が独立した運動と見られがちですが、そうではありません。この改革の根本的な意図は、教会組織の改革ではなくて、信仰の改革でした。つまり、聖書の御言葉に立ち返る運動であり、聖書のみが証しする神の恵みによって、人は救われ、その恵み深い神への信仰によってのみ人は義人とされるということでありました(信仰のみ、恵みのみ、聖書のみ)。

 当時の人々は、教会が発行し、推奨していた贖宥状を購入することによって、魂は救われると信じていました。しかし、ルターは人間が作った贖宥状に魂の救済を得られるという根拠は全くないと解き、救済はただ恵みの神にのみあり、その愛する独り子であるイエス・キリストを信じることにおいて与えられるということを述べたのです。このルターの声に民衆は賛同し、広く受け入れられ、改革運動の発端となっていったのです。  

   そして、ルターを始め、多くの改革者が改革運動を推し進め、プロテスタント教会は誕生しました。これに対し、ローマ・カトリック教会は、対抗宗教改革運動を引き起こして、宣教地を求めて海外に進出しました。1549年に日本にフランシスコ・ザビエルが到来したのも宗教改革の影響によるものでした。 数百年に及んで、宗教改革記念日は守られてきましたが、この日は、その改革運動を記念とするだけではなく、現代に生きるわたしたちも、聖書にのみ権威を置くことを新たに思い、神に向き合うひと時なのです。    

                                                                                                            補教師 瀬戸幸治

 

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