​2022年3月のメッセージ

2022.3.6「信仰者への誘惑とは」ルカ4章1~13節

 今日から四旬節、受難節に入ります。イエスさまが十字架を負うてゴルゴタの丘を目指して歩まれる40日間を覚えるときです。そして今、同じようにイエスさまはその40日を荒れ野で過ごされたのです。それも「霊」によって引き回され、とあります。試みを受けられたのは荒れ野です。ギリシャ語で<エレーモス>と言い、何もないところ、頼る者を持たないところ、孤児と言う意味を持っています。イエスさまがヨハネによる福音書で言われた言葉「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。(ヨハネ14:18)を思い出します。つまり荒れ野は人が人に頼れない、ただただ神にのみにより頼む、イエスさまはこの荒れ野で、食を断ち、これからの公生涯の歩みに入られる前に、父なる神さまに依り頼み、その歩みをより確かなものとしてくださるように祈っておられたのです。世の力ではなく、政治的な力ではなく、ましてや悪魔の力ではなく、ただ父なる神にのみ、全てを明け渡して生きていくことが出来るかの戦いを、主はなされたのです。

 ですから、私たちが信仰生活の途上において、様々な試みに出会っても、それは実は不幸なことではなく、私たちの心の中から、神さまを信じ、主に従っていくための障害となるものや、弊害となるものを取り除くためのものではないでしょうか。私たちも絶えず荒れ野の誘惑を受けるかも知れません。もし受けなかったら、むしろ私たちは受けないことを逆に深く考えなければなりません。もう一度言いますが、人生の荒れ野の中においても、モーセをして神がイスラエルの民を養い導いてくださった神は、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちを救い出してくださるお方なのです。 牧師 三ヶ嶋 徹

2022.3.13「今日も明日も、道を進む方」ルカ13章31~35節

 私たちは神様なしには生きられない存在です。それなのに、私たちは神様に敵対する性質があります。アダムとエバは神のようになりたいと願って、善悪の知識の木を食べて堕落し、神様の顔を避けて隠れました。残念ながら私たちはその神を拒絶する性質をずっと受け継いでいるのです。その様な私たちがいかにして信仰生活を続けることができるのでしょうか。  

 ファリサイ派の人々は、神の言葉である「律法」を教える民衆のリーダー的存在でした。一方、イエス様は、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。(1:14)」お方です。ところが、神の言葉を教える人々が、神の言葉であるイエス様に「ここから出ていけ!ヘロデが殺そうと願っているぞ」(原語)とイエス様を脅迫しました。ここに神に対する人の拒絶があります。神の言葉を知っている者が、神の言葉に敵対するという、激しい敵意が示されています。しかし、その敵対する者のために、イエス様は「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。」と、十字架の死が待つエルサレムに行く決意を示してくださいました。    

 さらに、イエス様は親鳥が巣の中の雛たちを羽の下において守ろうとする姿を喩に用いて、神の愛を表現されます。しかし、「何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとはしなかった」のです。そのような敵対する性質のあるものが、悔い改めて「私は神なしで生きられない」と、親鳥の羽の下に戻ることができるのは、「わたしは今日も明日も、その次の日も、自分の道を進まねばならない」と変わらずに言ってくださるイエス様がおられるからなのです。イエス様が手に釘をうちこまれて、十字架の上で大きく手を広げた姿は、羽の下に必死に雛を集めようとする神の愛の姿に見えるのではないでしょうか。今日も、明日も、その次の日も、私たちを愛してやまないイエス様は、今日も私たちを包むために、その羽を広げてくださっているのです。            補教師 瀬戸幸治

2022.3.20「神様の忍耐」ルカ13章1~9節

 今日イエス様は、2つの事件とブドウ園のたとえをもとにして、私たちに悔い改めを呼びかけておられます。イエス様は2つの事件について話されました。一つは、ガリラヤのユダヤ人たちが神殿でピラトに殺された事件です。もう一つはシロアムの塔が倒れて18人が下敷きになった悲惨な事件です。しかし、ユダヤ人たちは、この話を聞いても自分とは関係ないと受け止めていました。「そんな悲惨な死に方をするのは、他の人よりも罪深かったから、罪に対する罰を受けた」と考えていたのでした。この考え方は、私たちの身体の中にもしみついているかもしれません。でも、イエス様は「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」とはっきりと否定されました。  では、「悔い改め」とはなんでしょうか?「悔い改め」の言葉のもとの意味は「帰る」です。そしてイエス様は「悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。つまり、悔い改めとは、神に立ち帰り、イエス様の十字架の死と復活で救いが完成したことを信じることです。 

 イエス様は父なる神がその救いに与る人々をどれほど待ち望んでおられるのかについて語られました。ぶどう園の持ち主は、父なる神です。そして園丁はイエス様です。イチジクの実は、イエス様を信じる人々です。このイチジクの木は、植えられてから3年の木ではありません。旧約聖書(レビ記)によると、最初の4年は食べることができないので、7年間以上も実を待っていることになります。とっくに収穫できるはずの実が、全く実らないのです。それは、なかなか悔い改めようとしない頑なな私たちの姿です。父なる神はずっと悔い改めの実がなることを待ち望んでおられます。しかし、ついに、ご主人は園丁に「切り倒せ」と言います。でも、執り成してくださるのがイエス様です。イエス様は、私と父なる神様との間に立って、執り成しをしてくださっています。そして、わたしたちのために、「木の周りを掘って、肥しをやってみます」とお世話をしてくださっています。つまり、イエス様は、私たちの罪をすべて背負って、十字架にかかって死んでくださいました。ご自分の命を私たちのために、肥しにしてくださったのです。その様にして、私たちが実を実らせるように、つまり、悔い改めて神様のもとに立ち帰るように道を開いてくださいました。私たちは、いつもこのキリストに立ち返りましょう。そして、私たちも園丁の働きに参加しましょう。私たちも「祈り」という最も効果的な肥料を持っているからです。大切な方が実を結ぶように祈りましょう。  補教師 瀬戸幸治

2022.3.27「新しく創造される」ルカ15章1~3節、11~32節

  イエス様の時代、イスラエルはローマ帝国の支配下にあったため、デカポリスというギリシャ風の建物の街がありました。おそらくそのような異邦人の街に放蕩息子は行ったのでしょう。

 しかし、彼はそこで放蕩の限りを尽くして、財産を失います。そして餓死寸前の状態にまで陥りました。彼は我に返り、父のところに行くことを決意しました。そして「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にしてください」と言うつもりでした。

 ところが、どうでしょうか。21節の彼の言葉は、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」で終わっています。「雇人の一人にしてください」を彼は言いませんでした。なぜでしょうか。彼にとって、悔い改めは、失った父の財産を返すことでした。使用人として働いて負債を返済する。つまり、彼にとって父との関係の回復は、「自分の業」によることだと考えていたのでした。この気持ちはよくわかるのではないでしょうか。人間には罪責感があります。過去に自分がやって来た悪い行いが、年齢を重ねるとつらくなります。それを何とかしたくて、自分が考える善い行いで過去を清算したくなります。「こうしたら神様が赦してくれるのではないか」という思いは理解できるでしょう。   

 ところが、そうではありません。このお父さんは、息子が帰ってくると、彼の悔い改めの言葉を聞く前に、彼を抱きしめて、接吻をしました。接吻は、「和解」のしるしです。放蕩息子は「雇人の一人にしてください」という必要がなかったのです。父のもとに帰るだけで十分だったのです。神様も、悔い改めて、御自分に帰ってくる子を全面的に受け入れてくださり、一番良い服を着せてくださいます。私たちは、洗礼によって、一番いい服であるイエス様を着せていただいたのです。親子の関係の回復は、ただ父親の愛を受け取ることです。放蕩は息子だけではなく、お父さんも実は放蕩です。放蕩は、「浪費」「無駄にする」という意味があります。天のお父さんは、浪費とも思えるくらいの愛、放蕩の愛、あふれてやむことのない愛を私たちに注いてくださっているのです。       補教師 瀬戸幸治