​2022年5月のメッセージ

2022.5.1「復活の主のお言葉に従う者の恵み」ヨハネ21章1~19節

 今、ここでイエスさまは、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」ペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。このような質問が三度繰り返されました。この三度の繰り返しは、かつての三度主を否認したことと深くかかわっています。これはペトロを責める為でなく、その傷口に手を置いて癒すためでしょう。最初、イエスさまは「この人たち以上に」ご自分を愛するかと問いかけておられます。それはペトロが他の弟子たちの前で「たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません」(マタイ26:33)と、他者と比べることによって自分の勇気を示そうとしたことに関係すると言って過言ではないでしょう。「この人たち以上に」。ところがペトロは現実には、イエスさまを否み、見捨てて逃げてしまうという大失態をおかしてしまうのです。ところが最初のみ、他の弟子たち以上にご自分を愛するかと問われ、それ以後の質問においては問うておられません。ペトロは以前のように自信たっぷりに答えることはせずに、自分の主を愛する思いは、主が知っていてくださると謙遜に応えています。

 ここでイエスさまの「愛するか」という言葉は、十字架によって示された神の愛「アガペー」の愛を持って問われています。しかしそれに対して、ペトロが答えた「わたしがあなたを愛している」という言葉は、「フィレオー」という人間的な友情を表す意味の言葉です。ペトロはここに至って、主を愛し主のために命を捨てるという愛が自分のうちにはないことを、 悲痛な経験を通して学んだことによって、謙虚に答える者と変えられました。イエスさまに対する従順も愛も、神さまからの賜物以外の何物でもないのです。  

 イエスさまは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われました。これはペトロに新しい使命を託されたと言えるでしょう。これが三度繰り返されています。この三度の繰り返しもペトロの三度の否認と深く関わっています。これも前節同様、ペトロの傷口に手を置いて癒すためであり、また「わたしの羊の世話をしなさい」「わたしの羊を飼いなさい。」 は、主による牧者ペトロへの新たな召命であったのです。 三ヶ嶋 徹牧師

2022.5.8「主が羊飼い」詩編23編、ヨハネ10章22~30節

 イエス様の羊は、イエス様の声に聞き従います。イエス様も自分の声に聞き従う羊を知っていると言われます。「知っている」は顔見知り程度ではありません。アダムが妻エバを「知った」と創世記にはあります。「知る」とは、両者の深いつながりを表す言葉なのです。神が知っていてくださり、人は従う、この相互の関係にイエス様は招いてくださっています。  

 しかし、その関係に入れなかったのがユダヤ人たちでした。彼らは、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。(10:24)」と言います。新約聖書翻訳委員会が興味深く訳しています。「いつまでわれわれの魂を中途半端にしておかれるのか」です。イエス様を救い主とできない者は、魂が中途半端な状態なのです。

 そのような者たちにイエス様は語られます。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない(10:28)」。イエス様の羊はイエス様の手で守られているのです。さらに、それだけではありません。父なる神の手からも、守られているのです(10:29)。イエス様を羊飼いとする者の魂は不安定な状態ではありません。父なる神がイエス様を見捨てなかったように、私たちも見捨てられることはありません。これほどの関係に置いてくださるのは、イエス様が羊をとても大切な存在として見ていてくださっているからです。「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大である(10:29)」と言われています。「イエス様がわたしの羊飼い」だと告白するお一人おひとりを、イエス様は、もっとも価値ある存在として、見ておられるということです。聞き従う羊を、ご自分の命よりも価値のあるものとして見ておられるのです。

 今日のユダヤ人は、神の業を見ても、それを受け止められませんでした。私たちの周りにも神様の業が満ち溢れています。でも、自分の問題が期待する方法で解決されない時に、ユダヤ人のようにイエス様に「あなたはメシアなのか」と問いたくなるのかもしれません。しかし、その時にイエス様は「わたしの羊は私の声を聞く」と、キリストとの相互の関係に引き戻してくださいます。       瀬戸幸治 補教師

2022.5.15「新しい掟」ヨハネ13章31~35節

 イエス様は、「あなた方に新しい掟を与える」と言われました。つまり、「互いに愛し合う」ことです。イエス様のおっしゃる愛の新しさは、「わたしがあなた方を愛したように」という言葉に現わされています。イエス様のこの世での歩みは、僕として、神に仕え、人に仕えるお姿でした。イエス様の「わたしがあなた方を愛した」愛は、「仕える愛」だと言えるでしょう。したがって、「新しい掟」は「互いに『仕える愛を持って』愛し合うこと」です。しかし、弟子たちの間には、それがありませんでした。だから、イエス様は、今日の新しい掟に先立ち、13章の初めに、食事を中断してまで、弟子たちの足を洗うという行動を通して、彼らの心を砕かれました。  後にペテロは「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。(ペテロⅠ4:8)」また「賜物を生かして互いに仕えなさい(同4:9)」と言い、ヨハネは「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう(ヨハネ一3:11)」と言っています。   足を洗うのは、奴隷の仕事でした。それも最も身分の低い、異邦人の奴隷がする仕事です。最も高貴なお方が、最も低いところから弟子たちに仕えてくださいました。12人の中にはイエス様を裏切るユダ、イエス様を3回も知らないというペテロがいました。他の弟子たちも結局はイエス様が捕まると逃げてしまいました。そのような弟子たちの足をイエス様は、何もおっしゃらずに洗われました。その体験が彼らを強くしていったのでしょう。イエス様から「仕える愛」をいただいた者は、次は自らが仕える者へと変えられていくのです。   実は、イエス様は今も仕えてくださっています。礼拝は英語でモーニングサービスです。朝、誰が誰にサービスしてくださるのでしょうか。『イエス様が私たち』に仕えてくだるのです。私たちは洗礼を受けて清められて、イエス様を着せていただいています。でも、この世の旅路で、罪を犯します。霊的な足が汚れます。だから、イエス様が毎週の礼拝で定期的に私たちの足を洗ってくださいます。イエス様が仕えてくださる。それが礼拝です。礼拝でイエス様は、私たちの足を洗ってくださいます。イエス様の両手には穴が開いています。その手で、一人ひとりの足を洗い、罪を赦し、新しい命を与えてくださっているのです。その事実に信仰の目を向けましょう。     瀬戸幸治 補教師

2022.5.22「イエス様の約束」ヨハネ14章23~29節

 イエス様は3つのことを約束してくださいました。26節は聖霊の約束です。イエス様は聖霊を「弁護者」と呼ばれました。ギリシャ語の「パラクレートス」は日本語の聖書では「弁護者」と訳されていますが、一つの役割に当てはめることができない程、多岐にわたる役割を持つ言葉です。つまり聖霊は、私たちの必要のすべて満たす存在なのです。その聖霊は、「あなたがたにすべてのことを教える」また「わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」方なのです(26節)。聖霊は、イエス様が語られたこと、またイエス様によって成し遂げられた救いの全部を私たちに教え、思い起こさせてくださいます。 27節は平和の約束です。一般的に平和は「国と国とが戦争をしないで国民が安心して暮らせる状態」と理解されていると思います。しかし、その平和は、たった一人の人間の判断で、恐ろしい位に壊れてしまうのを、わたしたちはこれまでの歴史から知っています。イエス様の平和は何があっても壊れない平和です。たとえ、病気や貧困の中にあっても、神様との平和によって、平安が与えられるのです。パウロはフィリピ4:7で「人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」といっています。イエス様が与えようとしている平和は、人知を超え、どのような状況にあっても私たちを支えてくれる平和なのです。 28節はイエス様が戻ってくる約束です。それは終わりの日でしょうか。そうではありません。実は、今、わたしたちのこの世の歩みの中に、イエス様は戻って来ておられて、私たちと共にいてくださっています。確かに、最終的に、イエス様が目に見える仕方で戻って来て下さるのは、世の終わりの、いわゆる「再臨」の時です。しかし、実はすでに私たちは、聖霊の働きにより、み言葉の中に、そして聖餐の中にキリストを見ているのです。

 では、イエス様の約束を受け取るには、どうすればよいのでしょうか。答えは23節です。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」。つまり「イエス様を愛すること」を入り口として、受け取っていくことができるのです。 瀬戸幸治 補教師

2022.5.29「喜びの出来事」ルカ24章44~53節

 人には理性があります。理性がなければ社会生活を営むことは難しいでしょう。しかし、理性が神の出来事を見えなくしてしまうことがあります。そして、キリスト教は、頭で考えてもわからないことだらけです。どうして全能の神が人になり、十字架で死なねばならないのでしょうか、処女降誕、復活、昇天、再臨、これらは全部、頭で考えてもわかりません。聖書を全く知らない人が、「一晩考えたら、突然イエス・キリストが自分の救い主だとわかった」とはならないのです。 パウロは言います。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ロマ10:17)」  弟子たちは、復活のイエス様を理性で捉え幽霊を見ていると思い、恐れました。

 その弟子たちに、イエス様は「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いた」(45節)のです。「心の目」は原語では「理性」「分別」「心」を意味する言葉です。イエス様が弟子たちの理性を開かれたのです。それから、イエス様は、次の弟子たちに御言葉を語られているのことがわかります。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』  

 弟子たちは、復活のイエス様に出会い、復活のイエス様に心の目を開いていただき、そして復活のイエス様からみ言葉の解き明かしを受けたのです。 彼らは、ここで初めてイエス様が語ってこられたこと、聖書の言葉の本当の意味がわかったのだと思います。  なぜなら、彼らはイエス様が天に上げられて、もうイエス様を見ることができなくなるのに、「大喜び」でエルサレムに帰っているからです。イエス様の言葉はすべて実現していくこと、イエス様は見えなくても、いつも私たちと共にいてくださることがわかったのです。私たちも礼拝において、今日の弟子たちと同じ体験をしています。聖霊の助けにより、イエス様に心の目を開かれ、御言葉の解き明かしを受け、喜びの内に、元の場所へと戻るのです。     瀬戸幸治 補教師