あなたの教会
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2023年1月のメッセージ
2023.1.1「人の子は栄光に輝いて来られる」マタイ25章31~46節
さて、「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。」ここでは最後の審判について語れました。小さな者に対する愛こそ、人を永遠の刑罰と永遠の命に分ける重大な事柄であると教えられました。使徒パウロは人が救われるのは「ただキリスト・イエスを信じる信仰による」(ガラテヤ2:16)と語りつつ、「尊いのは、愛によって働く信仰だけである」(ガラテヤ5:6)と、彼は教えています。ここの「愛によって働く信仰だけ」の「だけ」と言う言葉は、元々のギリシャ語訳聖書にはありませんが、ルターが訳した聖書を直訳すると「愛を通して活動している信仰」となっていて、真実の信仰は良い実を実らせ、愛をほとばしり出させると言うのです。
そして更にパウロはまた、コリント信徒への手紙一13章13節でも「最も大いなるものは愛である」と語っています。また、愛がなければ山を移すほどの強い信仰も、殉教も無益であると語られています。今、イエスさまは十字架を前にして、最後に愛を教えられるのです。このキリストの例え話は、再臨までの時を、信仰による愛の実践に励んで過ごすようにという教えに置かれています。終わりの時のさばきの結果は、今の毎日の生活によって決まると言っても過言ではないでしょう。人の子であるイエスさまは、終わりの時に栄光を帯びて再臨し、全ての者をさばくために栄光の座に着かれます。全世界の民をさばかれるのです。主は、彼らのしたそれらの業は、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言われます。私たちは直接イエスさまに対してなら、万難を排してでも奉仕するでしょう。たとえば、イエスさまが私たちの目の前に現れて、空腹なので、何か食べさせて欲しいと言われたら、自分の食べる物を減らしてでも差し上げるでしょう。しかし、小さく取るに足らない者や、価値の認められない者であったなら、頼まれたからと言って、果たしてそうするでしょうか。主は、この世の生活において、どんな小さな者や小さなことに対しても、イエスさまに対してするように成せと言われます。パウロは語っています。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」(コロサイ3:23)。 牧師 三ヶ嶋徹
2023.1.8「主に交われば」詩編1編
「朱に交われば赤くなる」ということわざがあります。人は自分自身が気付いていなくても、他人の意見や主張に影響されやすく、環境や状況に染まりやすい、だから「良い友を選ぶことの大切さ」また「最適な環境に身を置くことの重要さ」を、このことわざは示しているのです。
このことは、そのまま信仰生活にも当てはまるのではないでしょうか。パウロは「主と交われば、一つ霊となるのです。」(Ⅰコリ6:17、新改訳)と言っています。そして、詩編1編もまた、同じように言います。「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」、このように主から影響を受け続けている人は、「流れのほとりに植えられた木」の様に「ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない」のです。
そして、この木は「植えられた木」と書かれていることから、誰かによって植えられ、世話をする存在がいることがわかります。ルカ13:6~9節には「実のならないいちじくの木」のたとえが記されています。ぶどう園の主人である父なる神が木を植え、園丁であるイエス・キリストが木の世話をするのです。つまり、主の教えを愛する者は、イエス・キリストからお世話を受け続ける者なのです。キリストの世話をいつも受けていて、キリストから栄養をもらっている木は、どのような実を結ぶでしょうか。それはやはりキリストのような実ではないでしょうか。今も私たちは、毎週の御言葉の説教を通してイエス様のお世話を受けています。キリストの体と血の聖餐を通して、キリストから栄養を頂いています。朱に交われば、結果として赤くなります。主イエス・キリストに交われば、必然的に良い実を結ぶのです。 補教師 瀬戸幸治
2023.1.15「見よ、神の小羊」ヨハネ1章29~42節
洗礼者ヨハネはキリストを「見よ」と言う。「みる」と一口に言っても、日本語にも「見る」「観る」「視る」「診る」「看る」など、様々な「みる」があるように、聖書の原語(ギリシャ語)にも様々な「見る」がある。一体、ヨハネはどのように「見よ」というのだろうか。実は、今日の聖書箇所には、ギリシャ語では4種類の「みる」が使われている。2つは日本語の「見る」と同じで、「目で見る」の「見る」、そして後の2つは「霊的に見る」という意味を持つ「見る」という言葉が使われている。今日の箇所には10回「見る」が出てくるが、その内8回は「霊的に見る」方の「見る」が使われている。つまり、イエス・キリストは単に目で見るだけではとらえられない存在なのである。 今日の箇所で、二人の弟子とイエスのやり取りが面白い。ついてくる二人にイエスは「何を求めているのか」と聞く。彼らは「どこに泊っておられるのか」と質問する。イエスは「来なさい。そうすればわかる(原語では「来なさい。そして、見なさい。」)」と答える。彼らは、イエスがどこに泊っているのか、つまり、イエスから教えを学びたいと考えたのだろう。イエスは彼らをさらに高い次元へと引き上げるために「来なさい。そして霊的に見ればわかる」と答えたのである。彼らは単にイエスの住まいを見たのではなく、イエスがどこに生きているのかを霊的に見た。イエスが父なる神とつながり、父なる神の愛に留まって生きている、その基を見たのである。そして、自分たちも、イエスの愛の内に留まった(泊った)のである。 私たちは聖霊の助けがなければ、自らの罪も、イエス・キリストが世の罪を取り除く神の小羊であることもわからない。しかし、私たちは目に見えるものにあまりにも縛られてはいないだろうか。見えている世界が全てであるかのように生きてはいないだろうか。洗礼者ヨハネも、イエス・キリストも、物事を肉眼で捉えつつ、霊的な事柄を悟る視点でこの世の出来事を見ていることが今日の聖書箇所からわかる。「メシアの元に来なさい。そして霊的に見なさい。」と、聖書は父なる神とイエス・キリストにつながる世界に生きるようにと、私たちを招いている。 補教師 瀬戸幸治
2023.1.29「誇る者は主を誇れ」マタイ5章:1~12節
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」イエス様は、「心の貧しい人々」、「悲しむ人々」、「義に飢え渇く人々」が、幸いだと言われました。ふつうはその反対です。「富」「健康」「成功」「栄誉」などを持つ人々が、幸いだといえます。しかし、富や健康がそれだけで本当の幸福を作り出すでしょうか。目に見える物質的なものは、全てうつろいやすいものにしか過ぎません。 さて、「心の貧しい人々」というのは、背後に三通りの意味があると言えます。(1)実際に乏しく、苦しみ、悩む人、(2)神の前に心低く、謙遜である人、(3)神のために隣人のため貧しさを引き受け、戦う人、です。そしてこの三通りの意味が、次の4節、5節、6節に出てくるのです。真理であるイエス・キリストが、その中に生きているような人は、幸福といえます。「生きる」ことが永遠なるものに繋がらなければ、幸福とは言えません。ただ肥え太っているだけでも、ただ貧しいだけでも、真理がそこに無ければ、幸福ではありません。「天国がその人のもの」でなければなりません。
成功、富、あらゆる物質的な幸福は、みな利己的なところがあります。しかし、ここに書かれているのは祝福です。祝福は他者の幸せを願うことです。イエス様は、ご自分の幸福を追求せずに、自らの幸福を投げうって他者を祝福されます。この他者への祝福こそ、現代に欠けているものではないでしょうか。 辞書で「しあわせ」をひくと、「幸せ」とだけ出てきますが、もう一つのしあわせがあるのです。それは「仕合わせ(仕え合う)」です。互いに仕え合うことゆえの幸せです。イエス様が呼びかけられた本当の真実の幸せは、ここにあるのではないでしょうか。律法の第一は、「まず、神を愛すること」。そして第二は「自分を愛するように、隣人を愛すること」です。私たちは、「仕合わせ」仕え合うということを、もう一度確認したいと思います。
三ヶ嶋徹牧師(編集:瀬戸幸治補教師)