​2021年12月のメッセージ

2021.12.5「荒れ野で叫ぶ者の声がする」ルカ3章1~6節

 ルカによる福音書3章は、神さまの御業がこの世のかかわりにおいて、この世に成就されたものとして語られています。洗礼者ヨハネが活躍し始めたことについても、ローマ皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督とか、ガリラヤの領主がヘロデであるか、誰が大祭司であるとかが記されているのです。それはまた、ローマ皇帝、領主ヘロデ、ユダヤ教の大祭司等、当時のユダヤ人たちの生活が、信仰に至るまで三重の統治を受けていたということが分かります。そのような非常に苦しく暗い時代に、神の言葉が荒れ野でヨハネに降ったと聖書は語ります。神の言葉は場所を選びません。教会や神学校や、神学者の間だけで聞かれるのではないということです。実に神の言葉は、何も生えない砂漠のような所に語られるのです。かつてモーセをして、イスラエルの民がエジプトを脱出した時に、神は民に具体的に語られ、豊かに養ってくださったのです。今、私たちの心がどんなに荒れすさんでいたとしても良いのです。神は「悔い改めよ」と語られます。つまり、神に立ち返れと、主イエスをお迎えする為に、心を整えよと言われるのです。「福音」とは、「喜びのおとずれ」とも言います。「喜び」というからには、どんなにか、美しい花園やきれいな音楽が奏でられているかと思えば、しかし、最初に出てくるのは「荒れ野」です。聖書の中において、「荒れ野」は大きな役割と意味を持っています。イスラエルは、モーセをして荒れ野を40年彷徨い、その間、神はマナをもって彼らを養ってくださいました。また新約では、イエスさまが荒れ野で40日の間、断食をされた後、悪魔の誘惑に遭われました。さらにイエスさまは、大きな奇跡を行われる前と後に一人淋しい所(原語では荒れ野、エレーモス)に身を置かれました。そこはただ神にのみ依り頼むところです。そう言う意味で、「荒れ野は、信仰者の学校」と言えるでしょう。私たちの人生においても荒れ野と思えるような時があります。荒れ野を恐れてはなりません。   牧師  三ケ嶋 徹

2021.12.12「悔い改めの実」ルカ3:7~18

 「朱に交われば赤くなる」ということわざがあります。人は関わる相手や環境によって、良くも悪くもなるというたとえです。

ですから、人が生きていく上で、誰と出会い、誰と過ごすかということは決定的に重要なことでしょう。預言者ゼファニア、洗礼者ヨハネ、使徒パウロ、この3者には共通点があります。それは、「神がそば近くにおられる」ことをリアルに感じていることです。 

 神はどこか遠くにおられて、自分とは全く関係のない存在なのではなく、今ここにおられて自分に影響を与える方として、神と出会っているのです。そして、その神と共にいることが「喜び」だと言うのです。 当時のユダヤ人はアブラハムの子孫だと言うだけで自分たちは救われていると信じていました。だからヨハネは、内実の伴わない信仰をやめよ「悔い改めの実を結べ」というのです。この実は、主にあって喜ぶ者だけにみのる実です。

 その実は言い換えると「相手をつぶすのではなく、相手を生かすことを求める実」と表現できるでしょう。なぜなら、主は人を生かすお方だからです。その主と共にいて、その主から影響を受けるなら、私たちも人を生かすものへと変えられるからです。   

 群衆や徴税人また兵士のように、私たちも「どうやったら実を結べますか」と聴きたくなるかもしれません。それは、フィリピ4:5の「広い心」から生まれてくるのではないでしょうか。「広い心」とは、公平、寛大、柔和、親切です。では私たちは「広い心」を持っているでしょうか。なかなか「はい」とは言えないでしょう。しかし、イエス様と共に生きる中で、私たちはイエス様の広い心に次第に近くなるのではないでしょうか。イエス様が私に向けてくださったイエス様の広い心が私を赦し、生かしてくださったように、私たちも他者が排除されることではなく、生かされることを願うようになるからです。 私たちが主にあって喜び続け、そして悔い改めの実を結ぶことができるように、この世に、いや、私のところに「インマヌエル(神は我々と共におられる)」が来られた。それがクリスマスの出来事なのです。    補教師 瀬戸幸治

2021.12.19「まぶねの中で」ルカ2:1~20

  クリスマスおめでとうございます。今日の箇所で、ルカは2つの点を強調しています。一つは、生まれた場所です。そしてもう一つは、生まれた姿です。今日、4回(4,6,11,16節)も「ベツレヘム」と書かれています。ベツレヘムには「パンの家」という意味があります。旧約聖書で「パン」と言えば、出エジプト記の「マナ」でしょう。神様がモーセを通してイスラエルの民に「天からパン」を降らせてくださいました。「天からのパン」、それが「マナ」でした。このマナで、イスラエルの民は荒れ野の40年間、命をつなぐことができました。イエス様は「わたしが命のパンである。」と言われました。ルカは、「パンの家、ベツレヘムに天からのパン、命のパンが来た。ベツレヘムに命があるぞ」といっているのです。そしてルカは、3回(7,12,16節)も「飼い葉桶の中に寝ている」と書きます。「神」が「人」となられた、その姿は何もできない赤ちゃんとしてでした。飼い葉おけの中ですやすや寝ているイエス様は、父なる神の御手にご自分のすべてをゆだね切っている姿です。また、神様のご計画に全幅の信頼を寄せている姿でありましょう。  なぜ、クリスマスがあったのか、なぜ神の子が人となったのか。しかも、飼い葉おけの中に。それは、産まれて、生きて、死ぬ、私たちの人生のすべてを共に歩んでくださるためです。そして、人間の罪の結果を代わりに負うてくださるためです。このイエス様がいてくださるから、私たちは、どんな試練の時をくぐっていく時であっても、神を信頼すること、また、神様のご計画に身をゆだねる勇気へと、わたしたちを立ち上がらせてくれるのではないでしょうか。神様の計画は揺るがないし、失われることはありません。そこに信頼を寄せる時に力がわいてきます。独り子を死に渡された神様の御計画と、イエス様の犠牲に支えられて、私たちはそうすることができるのです。「今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである。」、このみ言葉に信頼を置く時に、クリスマスは「今日」「わたしたち」のことになるのです。       補教師 瀬戸幸治

2021.12.26「救い主イエス・キリストを拝する」マタイ2:1~23

「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」

 学者たちは、幼子イエスさまをひれ伏して拝んだのです。彼らの進行が本物であったことが分かります。もし彼らが幼子イエスさまに出会っても、それがメシアであるという信仰がなかったら拝みはしなかったでしょう。信仰がなければ本当の意味での礼拝はあり得ないのです。礼拝なしの信仰もあり得ません。つまり私たちの信仰が真実のものであるなら、それは必ず礼拝を伴うものです。礼拝をおろそかにするなら、真実の信仰を持っていないと言えるでしょう。最後に彼らは、宝の箱を開けて彼らの最も大切な宝を献げたということでした。黄金は恵みのしるしと言われ、乳香は祈りのしるし、没薬は清らかさを表徴すると考えられています。そしてご存じかと思いますが、没薬は死を預言される者に塗るものであって、葬りの備えとして、主イエス・キリストの十字架を表しているとも考えられます。私たちにとっても、礼拝で私たちの最も大切なものを捧げるということは大事なことですね。パウロは言いました。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12:1)と勧めています。神さまがご自身の御子をお与えくださったのですから、私たちが自分を神さまにささげるのは当然ではないでしょうか。これこそ霊的な礼拝です。礼拝と献身とは別物ではないでしょう。  三ヶ嶋 徹牧師