​2021年9月のメッセージ

2021.9.5「信仰による愛の癒し」 マルコ 7:24~37 

 「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。」とあります。さて、ここに登場して来る、この体の不自由な人は、耳も聞こえないし、話すことも出来ません。おそらく生まれつき人の言葉を聞いたことがないので、話すことが出来ないのでしょうか。とすれば、この人は、自分の意志を人に伝えることが出来ないはずです。そこで他の人が代わってイエス様にお願いしたと言うことになったのでしょう。どんなに困っている時も、助け支える「弁護者や介護者」がいるなら、彼の耳となり、口となってくれる人がいるなら安心でしょう。世の中はこのように支え合いで成り立っているのです。これらの人は、あの中風の人を戸板に乗せて、屋根瓦まで引っ剥がして、イエスさまのみ前に吊り下ろした、あの信仰深い4人の友達を想起させますね。

 さて、聴力と会話力の二つは大切な伝達手段です。これがなければ交わりが出来ません。しかし、そのような二重苦の人にももちろん感覚はありますし、普通障害のある人は、感覚は一般の人よりも優れているものです。ですから人々はイエスさまに対して「その上に手を置いてくださるように」とお願いしたのです。私たちはたとえある部分が麻痺していても、必ず別の伝達手段があるはずです。神さまはそう言う場合、他の部分を一層優れたものにして、劣った部分を補えるようにしてくださいました。劣っている点があることによって、いっそう働く部分が出来てくるのです。どんな人にも、私たちを愛してくださるイエスさまとの交わる道を閉ざしてしまうような障害はないはずです。イエスさまはここで、この人にふさわしいように、決して言葉だけではなく、「そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。」とあります。 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。のです。    牧師 三ヶ嶋徹

2021.9.12「十字架の重さで」 マルコ 8:27~38 

  昨年、女優の芦田愛菜さんがインタビューで「人を信じるとは」と質問を受け、こう答えておられた。『「その人を信じる」と言うけれど、実はその人を信じているのではなく、自分が作り上げたその人の人物像を信じているのではないか。だから、「裏切られた」とか「期待していたのに」ということがあっても、その人が裏切ったのではなくて、その人の見えなかった部分が見えただけだ』。ペテロは、まさに自分のイメージする「メシア」をイエス様に求めたのでした。だからイエス様が「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている(31)」と言われた時に、彼はイエス様をいさめたのでした。私たちにもペテロと同じように、自分の求めていた結果と異なる時に神に憤りをおぼえることはないでしょうか。しかし、イエス様は、そのように自分の思いを中心にして神の計画の前に立ちふさがる者に、「引き下がれ」と言われます。原語を直訳すると、「あなたは私の後ろに行きなさい」となります。イエス様はペテロを見捨てたのではなく、神の計画に背く者に「あなたは私よりも先に行かなくてよい。私の後ろをついてきなさい。」と、神様のご意志に招かれたのです。ペテロはイエス様に「引き下がれ」と言われた時、ハッとしたことでしょう。なぜなら、イエス様がペテロを弟子にされた時に言われた「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう(マタイ4:19)」の「わたしについて来なさい」とほとんど同じ言葉だからです。イエス様は、彼をイエス様のみ言葉に素直に聞き従った彼へと引き戻されました。同じように、私たちがイエス様のみ言葉に聞き従ったのは、洗礼を受けた時です。イエス様は、御心から外れようとする者を何度でも洗礼に立ち返らせてくださいます。イエス様の後ろをイエス様の背中を見続けながら歩む者が、「自分を捨て、自分の十字架を背負う」者なのです。    

                                     補教師 瀬戸幸治

2021.9.19「責任を負う神」イザヤ書43:1~7 

 イスラエルの民は農耕民族ですから、農作物を作り、家畜を殖やすことが生活の上でとても大切なことでした。次第に彼らは実りの豊かさを求めてバアルやアシェラという偶像を礼拝するようになってしまいました。彼らは神の律法に従わず、豊かさを追い求め、その結果、バビロン捕囚で国を失いました。今日のみ言葉は、神以外のものを神としてしまい、しかし、その失敗から神に立ち返ろうとする民に語られた、神様からのラブコールです。本当の慰め、いつの時代も変わらない慰めは、神様からしか来ません。今日、神様は3つのことで、私たちへの慰めが絶対的なものであることをお語りくださっています(43:1)。①「わたしはあなたを贖った」神がイスラエルの民をエジプトから助け出されたことを見るとわかります。またバビロン捕囚からの解放もそうです。そして、過去のことだけではなく、今も、神様は罪から救い出してくださいます。②「あなたはわたしのもの」神様は、ご自分の民を「あなたは私のものだ」と宣言してくださいます。「レッテルを貼る」という表現があります。他人を勝手に「あのひとは、○〇な人だ」と決めつける時に使いますが、本来は、自社の製品や商品であることを証明するための商品ラベルを貼ることです。だから、神様は私に、間違いなくあなたは私のものであるという、ラベルを貼ってくださるのです。③「わたしはあなたの名を呼ぶ」神様はわたしの名前を呼んでくださいます。7節をみると、「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者。」とあります。つまり「あなたは特別な存在だ」といっておられるのです。神様は、この3つの慰めを与え、永遠に私たちと共にいてくださいます。神様はご自分が創られた者に責任を負うてくださるお方なのです。  

   この約束はイエス様によって成就しました。イエス様は、インマヌエル(神は我々と共におられる)という名の贖い主です。そのイエス様が、ヨハネ10章でこう言われます。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」「わたしは羊のために命をすてる」。今日の3つの慰めはイエス様によって、永遠に私たちのものなのです。                                                                                           補教師 瀬戸幸治

2021.9.26「神の国に入る」マルコ9章38~50 

 最初の罪によって堕落した人間の姿をルターは「ウジのつまった袋」と表現しました。それ程に人は崩れていて、自分ではどうすることもできない状態なのです。ヨハネは「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」(9:38)と言いました。ヨハネは、「仲間でもないのに、勝手にイエス様の名前をつかってはだめだ」と言ったのでしょう。つまり、イエス様の名前の使用許可をヨハネが決めたことになります。イエス様に従いながらも、イエス様の上に自分を置いている、堕落した人間の姿がここにあります。ヨハネが38節で言った「わたしたち」とイエス様が40節で言われた「わたしたち」は意味合いが全く違います。ヨハネは境界線を引いて、仲間の範囲を自ら決めているのに対して、イエス様は、境界線を引かずに、むしろ、キリストの名において、人と人とがつながっていく世界を「わたしたち」と言われたのです。私たちの中には、自分と他者とを隔ててしまう心があることに注意が必要です。イエス様は、「手」「足」「目」が両方そろっているよりも、片方になっても命にあずかる方がよいと言われます。しかし、手・足・目がつまずくようにさせているのではありません。それは自分自身の心にあるのです。自分自身ではどうすることもできない私たちはどうすればよいのでしょうか。それは9:49節以下でイエス様が言われている様に、「塩で味つけられたものとして生きること」「自分自身の内に塩を持つこと」なのです。塩は生きる上でなくてはならない物です。コロサイの信徒への手紙の第4章6節には「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」とあります。この「快い」という言葉の原語の意味は「恵み」です。したがって、「塩で味付けされた言葉」とは、「恵みの言葉」なのです。その恵みとは、キリストの十字架の贖いによって、私たちの罪が赦され、新しく生きる者としてくださった恵みに他なりません。この神様の恵みこそ、私たちが生きるために無くてはならない塩なのです。イエス様の恵みという塩を、独占するのではなく、お互いに分け合って生きることができる世界をイエス様が完成してくださいました。だから、イエス様はわたしたちに「互いに平和に過ごしなさい」と言われるのです。                                                                                           補教師 瀬戸幸治