​2021年8月の”ギフト”

 

「見えない教会」

補教師 瀬戸 幸治

 

 われわれの諸教会はまた、こう教える。唯一の聖なる教会は、永遠に存続する。教会は、聖徒の集まりであって、その中で福音が純粋に教えられ、聖礼典が正しく執行される。そして、教会の真の一致のためには、福音の教理と聖礼典の執行について同意すれば、それで十分である。人間的な伝承、あるいは人の定めた儀式や祭式は、どこにおいても同じでなければならないという必要はない。それはパウロが「ひとつの信仰、ひとつのバプテスマ、ひとりの神、またすべての者の父」云々(エペソ4:5、6)と言っているとおりである。

                                    〔アウグスブルク信仰告白 第七条 教会について〕

 

 どうやら教会は見えないらしい。先日、クリスチャンではない方とこんな話をした。

 Tさん:「瀬戸さんは、何をされている方ですか?」

 瀬 戸:「南が丘にあるキリスト教会で、伝道師(補教師)をしています。」

 Tさん:「(南が丘に教会あったっけ?という顔をしながら)ルーテル幼稚園がありますよね?」

 瀬 戸:「そうそう。その横にある教会です。」

 Tさん:「そうなんですね(教会あったっけ?という顔をしながら・・・)」

 

 トホホ・・である。しかし、これは津教会だけのことではない。橿原教会にいた時も、奈良教会にいた時も、クリスチャンでない方と、同じ会話をした経験は一度や二度ではない。教会の看板があっても、ゼンリンの地図に載っていても、Googleマップに表示されていても、教会は見えないらしい。

 この課題は大きな問題であるから、何とかしたいのだが、どうやら聖書の言う教会も「見えない教会」であるようだ。わたしたちのルーテル教会は、教会を「聖徒の集まり」と定義している。言い換えると、教会とは「羊飼いにたとえられる主イエスに従う信仰者の群れ」のことである。つまり、「私たち一人ひとり」と言うことができる。主の愛が与えられた私たち一人ひとりが、教会を代表しているのである。

 

 今、キリスト教界は元気がないと言われる。確かに戦後のような勢いはないかもしれない。またコロナによって、見える活動が減少していることも確かである。地域の中で建物としての教会は益々見えなくなっているのだろう。

 しかし、どのような時代、環境の中でも、教会の使命は変わらない。それは、はっきりと福音を証していくことである。今は外向きの活動ができないかもしれない。でも今、大切なことは、一人ひとりが羊飼いの呼び声に照準を合わせていくことではないだろうか。来るべき時に備えて、人の声や世間の雑音ではなく「いつも主の声を聞き分けている私(教会)」であり続けていくことだろう。なぜなら、コロナが収束し、救いを求めて教会に人が来られた時、その人々は「イエス様に従う私」という教会を見て、本当の羊飼いに至るからである。

 集まろう。そして、福音の説教と聖餐の恵みに与ろう。感染予防を万全にして。