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​2021年8月のメッセージ

2021.8.1「主イエスは命のパン」 ヨハネ6:22~35

 群衆は、イエスさまと弟子たちが夜のうちに対岸のカファルナウムに行ってしまったことに気付くと、自分たちも小舟に乗ってイエスさまを捜しに出かけました。そしてようやくイエスさまを探し当てると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と尋ねています。本当に彼ら群衆の姿は、飼い主のいない羊のような有様です。しかし、彼らがこれほど熱心にイエスさまの後を追っているのは、本当にイエスさまのことを神の子として信じるようになったからでしょうか。彼らはやはりイエスさまを、あくまでも経済的な必要を満たす方としてしか見ていないのではないでしょうか。

 パンの奇蹟は、イエスさまこそ、真に人を生かす力を備えた、神から遣わされたお方であることを証明するものであったのに、彼らはしるしが指し示すイエスさまには目を向けず、パンが増えて自分たちは満腹したと現象そのものに心を奪われてしまっているのです。

 「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」(6:27)。つまり、神さまがこのイエスを通して与えようとされている永遠の命を求めなさい、と強く語られているのです。そのためにご自分はこの世界に派遣されたのだと告げられました。すると彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言います。彼らの態度にはユダヤ人特有の律法主義的な姿勢が見え隠れします。何をしたら神に、受け入れられるものとなれるかと言う考えがその根底にあるからです。人間の差し出すどんな業も、神の御前で自らの義と救いを、報いとして、つまりご褒美として獲得することが出来るのでしょうか。しかし、何をしても、世の功徳を積んだとしても、神さまと人間の間のギャップを埋める為には、神さまの方から橋を架けていただかなければなりません。人間の側から歩み寄ることは出来ないのです。その架け橋がイエスさまそのものなのです。    牧師 三ヶ嶋 徹

 

2021.8.8「永遠に生きるとは」 ヨハネ6:35,41~51

 先週まで、人々は「群衆」と書かれていましたが、41節からは「ユダヤ人」と記されています。しかも「つぶやくユダヤ人」です。不平・不満が起こるのは、目の前の現実が自分の思い描いていたイメージ、自分がそうなってほしいと思っていたこととズレが生じた時です。群衆は「食べるパン」を欲し、イエス様はもっと大切な「命のパン」をずっと語られ続けました。「つぶやくユダヤ人」は、自分の考えを真ん中において、そこから一歩もでられない不信仰な者の姿です。

 創世記には、神が世界を造られ、人がエデンの園に置かれたことが書かれています。神様は、エデンの園の中央に、二本の木を生えさせられました。それが「命の木」と「善悪を知る木」です(創世記2:9)。これは「善悪」も「命」も神がご支配されている、つまり、世界の中央は神のものであるということです。私たちは、神が中央にいてこそ、本当の意味で生かされているのです。

 ところが、人は善悪の知識の実を食べ、世界の中央を奪い取ってしまいました。できもしないのに、善悪をコントロールしなければならなくなったのです。神を神とすることができなくなり、自分を神として世界の中央に居座り、できもしない椅子に座り続ける苦しみの中を生きるようになってしまいました。その姿が端的に言えば「つぶやくユダヤ人」なのです。私たちには本当の中央が必要です。神様は、善悪に挟まれてつぶやくしかできない私たちに、一つの救いをくださいました。それがイエス・キリストです。イエス様が、もう一度、世界の中央についてくださり、善悪を自分でコントロールしなければならないところから、私たちを解放してくださるのです。

 その福音をイエス様が語って下さっているのが、今日の箇所です。イエス様は、つぶやく者に4回も「わたしが命のパンなんだ」と力をこめて語り掛けてくださっています。

なぜなら、イエス様が「地上にきてくださった命の木」だからです。イエス様は、はっきり宣言してくださいます。「信じる者は永遠の命を得ている(47節)」と。イエス様を自分の真ん中にお迎えするところに、本当の命があるのです。そして、神を世界の中央とする者の「つぶやき」は、神に助けを求める「祈り」へと変えられます。                          補教師 瀬戸 幸治

2021.8.15「キリストに生きる」 ヨハネ6:51~58

 イエス様は、永遠の命とはどういうものか、また、それはどういう状態であるのかについて語られました。イエス様はご自分を「パン」と言われてきましたが、この箇所では「肉」また「血」と言われました。肉と血は十字架を表します。イエス様が十字架の上で、肉を裂かれ、血を流されたからです。したがって、53節のみ言葉は、「十字架に命がある」ということです(はっきり言っておく、人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない)。そして永遠の命について語られました(いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。56節後半)。

つまり、神との人格的な交わりの中に入ること、それが永遠の命なのです。

 そして、イエス様は「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。(57節)」と言われました。私(瀬戸)が持っている十字架は、三位一体の神を表しています。イエス様が十字架につけられていて、そのイエス様を後ろから父なる神が支えておられます。そして、十字架の上に、聖霊をあらわす鳩が飛んでいます。キリストを食べる者、つまり、キリストの十字架を求める者を、父なる神、子なる神、聖霊なる神の三位一体の神が取り囲んでいるということなのです。その神との人格的な交わりが永遠の命なのです。今日、イエス様は私たちを、その幸いに招かれているのです。

 そのような平安に生きるにはどうすればいいのでしょうか。58節でイエス様はこのように教えてくださいました。「このパンを食べる者は、永遠に生きる」。

「食べる」は、必死に貪り食うような姿をあらわします。つまり、永遠の命に生きるということは、十字架を貪るように欲すること、ただそれだけなのです。今週も神様に包み込まれている世界に生きる者とさせていただきましょう。                            補教師 瀬戸 幸治

2021.8.22「この言葉の内に命があった」 ヨハネ6:56~69

 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」ユダヤ人にとって、これ以上の躓きの言葉はなかったでしょう。イエスさまの肉を食べると言うのは、人肉を食らうという印象を与えるだけでなく、血を食すると事が固く禁じられていたユダヤ人にとって言語道断、神を冒涜する恐れるべき暴言以外の何物でもないことです。そして何よりも場所も場所、イエスさまはカファルナウムの会堂で語られたのです。もちろんイエスさまはそのような意図で言われたのではありません。人の子イエスさまの肉と地がまことの食物です。彼らユダヤ人の祖先は荒野でマナを食べたのですが、みな死んでしまったのです。しかし、この真の食物を食べる者、すなわちイエスさまを自分の内に受け入れる者は永遠の命に生きる。と説かれておられたのです。  

 パンの奇蹟に続くこの話の背景には、イエスさまの十字架の死と聖餐に関する教えが語られています。イエスさまが与えようとしている「命のパン」は、十字架上で神の子羊として屠られるイエスさまご自身のことであって、このイエスさまを信仰によって受け入れなければ、何度も言いますが、「イエスの肉を食べ、血を飲まなければ」私たちの内に命はないのです。そしてこのイエスさまと人格的交わりを持ち、神の子として誕生することは、十字架でイエスさまが肉を裂き、血を流されたと言う事実を抜きにしてあり得ないのです。このように、パンの奇蹟は、十字架による贖いの御業を通してイエスさまを信じるすべての者に豊かに与えられる真の霊的食物のしるしなのです。                 牧師 三ヶ嶋 徹

2021.8.29「心を受け継ぐ」 マルコ7:1~23

 信仰とは、神様の御心を第一とすることでしょう。しかし、それは簡単ではありません。ユダヤ人の歴史は他民族との戦いの歴史でもあります。北イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、南ユダはバビロン捕囚の憂き目を見ました。その結果、彼らは自分たちのアイデンティティを守るために、律法を頑なに守ることで他民族との差別化を図るに至りました。しかし、残念なことにそれこそが神様のみ心を見失う結果となってしまいました。私たちも、もし信仰生活が「神と私」だけの世界になってしまうと、ユダヤ人と同じ落とし穴に陥る危険があるのです。ユダヤ人は、神経質なほど「清め」にこだわっていました。異邦人や罪人と接触することは汚れることだと認識していました。つまり、彼らは他者とかかわりを持つことを「汚れ」としていたのです。でも、キリストは違いました。他者とかかわりを持たないこと、その心が「汚れ」だと言っておられるのです。なぜなら、イエス様がこの世に来られたのは、人を愛するためだからです。 

 イエス様は、当時の指導者であるファリサイ派と律法学者に、十戒の第四戒である「父母を敬え」という神の言葉をもって、彼らが御心からずれていることを指摘されました。指導者(人)の言葉に支配されていた群衆には、神の子であるキリストが「わたしの言うことを聞いて悟りなさい」と呼びかけられ、神の言葉に導かれました。そして、弟子たちには、人を汚す12のことを教えられました。それは、十戒から離れる人間の心です。つまり、今日イエス様は、神の言葉に立ち戻ること、十戒の心を受け取るようにと招いておられるのです。十戒の心は、神を愛し、人を愛することです。イエス様は、神に愛されている者を隣人を愛する者にしてくださるのです。   

 礼拝で私たちはイエス様と出会い、罪を赦され、新しい命をいただき、新しい私として、それぞれのくらしの場に送り出されるのです。私たちが送り出される場は、3つあるとルターは言います。「家庭」「教会」「社会」この3つです。そこに私たちは「あなたは、その場で祝福の器となりなさい」と神様から派遣されるのです。                               補教師 瀬戸幸治

 

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