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​2023年2月のメッセージ

2023.2.5「キリストによる職務分掌」マタイ5章13~16節

 組織で働いた経験はあるでしょうか。どんな仕事にも役割分担(職務分掌)があります。今日、イエス様は、弟子たちに、つまりはクリスチャンに「あなた方は地の塩である。」「あなた方は世の光である」と言われました。クリスチャンが「地の塩」「世の光」であるというのは、イエス様から与えられたクリスチャンの役割なのです。イエス様の時代、塩は食べ物を腐らないようにする防腐剤として使われていました。だから食べ物を塩漬けにしたのです。塩漬けにすると腐らない。この常識を用いて、「あなた方は、この世界の腐敗を防ぐ塩なんだ」と言われました。クリスチャンの存在とは、この罪深い世界において唯一の防腐の役割を担っているということを覚えましょう。次に、同じくイエス様が言われた私たちの役割は「あなたがたは世の光である」ということです。光にも色々あります。イエス様が言われる光とは、どんな光なのでしょうか。まず、山の上に建てられた町がたとえにあがります。当時山の上に建てられた都市は、朝日や夕焼けの時に太陽の光を反射して、町全体が輝いて見えたそうです。つまり、私たちが放つ世の光は、キリストの光を受けて輝く光です。そしてその光は、燭台に灯した蝋燭の明かりのように、暗かった家の中を照らし、他のものにも輝きを与えていく光だということです。私たちは地を罪の腐敗から防ぐ塩であり、キリストを反射して他者をも輝やかせる光なのです。「立派な行い」とは、イエス様の光を反射して、イエス様の光をいつも輝かし続けることなのです。この役割に生きてまいりましょう。                  補教師 瀬戸幸治

2023.2.12「神様の視座」マタイ17章1~9節

 体の中は見えません。しかし、レントゲンなら見えない体の中を見ることができます。キリストは「殺すな」「姦淫するな」と言われます。これは律法の十戒の言葉ですが、律法はまさに見えない心の中を見るレントゲンのようなものです。人は言動を見ます。しかし神は心の中を見られます。つまり、律法は実際に殺したのかどうかではなく、腹を立てることでさえ「殺すな」という律法を犯したことになるのです。これでは誰も神の御心に適うことはできないでしょう。   では、律法は守らなくてもよいものなのでしょうか。決してそうではありません。律法が神の要求であることは間違いありません。そうであるならば、私たちは律法の前に絶望するしかありません。しかし、それが大事なことなのです。私たちは律法に絶望しなければならないのです。そして、福音であるイエス・キリストと出会わなければならないのです。大事なことは、神の律法は、まず、私たちが罪人であることを教えることなのです。  見えない体の中もレントゲンなら見えるように、律法によって私たちは自分の内にある罪、つまり永遠の滅びに至る病を自覚することができるのです。私たちの礼拝では、最初の方に十戒が朗読されます。十戒は律法の代表です。この光に照らされて、自らの内にある罪を自覚し、今週犯した罪を告白し、その罪を赦され、キリストのゆえに、赦しと新しい命をいただく、ということが礼拝において起こっていることなのです。律法で罪を示されて、キリストのもとへ行くこと。イエス・キリストと出会うこと。それが、神のご意志であることを覚えましょう。        補教師 瀬戸幸治

2023.2.19「わたしの愛する子」マタイ17章1~9節

 私たちの人生は、どこへ向かっているのでしょうか。何が良い人生なのでしょうか。人生のゴールとは何なのでしょうか。今日、キリストはキリスト者のゴールを垣間見せてくださいます。   イエス様は、3人だけ弟子を連れて山に登られました。そこで、イエス様はご自身の本来の姿を見せてくださいました。17:2には「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽の様に輝き、服は光の様に白くなった」と記されています。イエス様は、人となる前の本来の栄光の姿を見せてくださったのです。この姿をイエス様が見せられた理由の一つは、自分が本当に神の子であることを弟子たちにわからせるためでした。今日の聖書箇所の直前には、イエス様がエルサレムで、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺されること、しかし、三日目に復活することを弟子たちに話されました。ところが、弟子たちはイエス様が死ぬと聞いて混乱してしまったのです。ですから、イエス様は、将来の栄光を先取りして、弟子たちに自分が本当に生ける神の子なんだということを見せてくださいました。   

 そして、もう一つ大事なことがあります。イエス様は本来の御自分の栄光を見せることで、将来私たちがイエス様に似た者にされることを示してくださったことです。イエス様が、本来の栄光の姿を見せてくださったのは、洗礼をうけてイエス様と一つとなっている者は、将来、造りかえられて栄光の姿になる、そのことをわからせてくださるためでした。私たちの人生は、どこにたどり着くのかわからない旅ではありません。神様の栄光に迎えられるというゴールをしっかりと捉えながら歩むことができるのです。    

 そこに到達するには、どうすれば良いのでしょうか。 答えは雲の中から聞こえてきた声にあります。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」、「キリストに聞き続ける」それが答えです。 人生は、山あり谷ありです。弟子たちはイエス様と高い山に登りました。そして、イエス様は一緒に山をくだってくださいました。また、恐れて地に伏す者に「起きなさい。恐れることはない。」と励ましてくださいます。イエス様は、人生のゴールを示されただけではなく、その道中の歩みをも共にしてくださるお方なのです。その幸いな人生を歩ませていただきましょう。           補教師 瀬戸幸治

2023.2.26「御言葉で勝つ」マタイ4章1~11節

 悪魔とは、「うそをつく者」「中傷する者」という意味です。悪魔を侮ることは決してできません。悪魔がねらっていることは、主を信じる人を、主を信じない人にすることです。主を信頼できなくする、それが悪魔のねらいです。でも、悪魔は神に勝つことができません。神の方が強いのです。だから、神が愛してやまない人間を攻撃してくるのです。

 悪魔の手口は巧妙です。悪魔の三度の誘惑に対するイエス様は、御言葉を引用された後で、「と書いてある」と言われている事に気づくでしょうか。これはギリシャ語特有の表現です。イエス様は、「過去に書かれたことが、今も生きて働いている」という表現をされています。つまり、神の言葉は不変で、永遠に力あるものであり、その言葉に私は信頼を置いて生きている、と言われたと理解することができます。

イエス様が悪魔の誘惑に打ち勝たれたので、私たちもイエス様と同じように、御言葉を「と書いてある」と信頼を置いて生きることができるのです。神の力ある御言葉に生きることができるのです。

 悪魔の誘惑は、様々な形で私たちの前に現れます。私たちの弱さに付け込んできます。身体の痛みに苦しむことがあります。病気が与えられることがあります。失望する出来事にも遭遇します。貧困に陥ることがあるかもしれません。大切な家族との死別というつらい経験をするかもしれません。その様な経験は「神は本当に私を愛しておられるのか」という疑問を私たちに抱かせるかもしれません。私たちを神から引き離そうとするかもしれません。

 でも、覚えておきたいことは、神は依然として悪魔よりもはるかに強力で、私たちが主であり救い主であるイエス・キリストに信頼を置き続ける限り、悪魔は私たちを圧倒することはできない、ということです。

 神の言葉であるイエス・キリストで私たちは悪魔の誘惑に勝つのです。   補教師 瀬戸幸治

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