​2022年11月のメッセージ

2022.11.6「復活にあずかる者として」ルカ20章27~38節

 イエスさまご自身は「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」と語っておられる通りです。神さまが彼らの神と呼ばれることをよしとされるからには、彼らは必ず復活することになるとそうイエスさまは語っていらっしゃるのです。こうなると、モーセの書について熟知していると豪語していたサドカイ派の人々は、自分たちの無知を暴露してしまったことになります。イエスさまのお答えの中で、「生きている」ということは、「神に対して」生きていることだと語っておられるのです。今日の御言葉の一番大切なところ、重要な点なのです。なぜなら、生きているということの根源的な意味が明らかにされているからなのです。ヨハネは後に、ヨハネ第一の手紙で「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(Ⅰヨハネ4:9)と、年を重ねたヨハネが語っています。つまり、人が生きるのは、自然に対してでもなく、物質や金銭に対してでもなく、ましてや人に対してでもありません。生きているということは、神に対して、神に愛され神を愛して生きることから始まります。

牧師 三ヶ嶋 徹

2022.11.13「おびえなくてよい生活」ルカ21章5~19節

 「世界終末時計」を知っていますか。核戦争などによる人類の絶滅を『午前0時』になぞらえた時計で、2022年現在は「100秒前」と計算されています。イエス様の話が現実味を増しているように思います。しかし、戦争や暴動、大きな地震、飢饉や疫病、恐ろしい現象では、世界は終わらないのです。では、いつ終わるかの答えは、21章の後半、26、27節に記されています。「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」

 イエス様が大いなる力と栄光を帯びてもう一度来られる、そのことによって今の世界は終わる、と聖書は語ります。つまり、クリスチャンにとっての終末とは、イエス様のご支配が誰の目にも明らかな仕方で確立し、完成することなのです。今はまだイエス様のご支配は目に見えません。信じるしかない事柄です。この世界と私たちの目に見える現実には、なお罪が満ちており、苦しみや悲しみがあります。天災や人災による苦難があります。そういうことに私たちは脅えると思います。でも、イエス様は「おびえてはいけない」と言われます。なぜなら「こういうことがまず起こるに決まっている」からであり、その先に神様の計画の完成があるからなのです。 

私たちは「おびえてはならない」というキリストの励ましを自分のものとして、キリストが再び来られることを常に意識しながら、目の前で起こることには、惑わされず、おびえることなく、神の約束に身を置き続けましょう。   補教師 瀬戸幸治

2022.11.20「主は我らの救い」ルカ23章32~43節

 十字架の主イエスを見つめる人々の反応は、一つの共通した言葉で表されています。ユダヤ教の指導者たち、ローマの兵士たち、十字架にかけられた二人の犯罪人たちの内の一人。彼らは一様にイエスさまに向かって、「自分を救ってみろ」でした。この「自分を救え」と言う彼らの嘲りは、実は自分たちこそ救いを必要としているということを認めたがらない、罪の姿を映し出しているのです。それは、次に出て来る窘めた犯罪人の「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」、そして「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったのです。彼のこのような信仰告白とも言える言葉は、信仰はどこで得たのだろうかと思うのです。彼は共に十字架につけられ、そこで語られるイエスさまのお言葉に耳を傾けていたのではないでしょうか。そして何よりも「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」の執り成しの祈りの中に、自分自身も加えられている事実を知ったのです。十字架刑に処せられるほどの大きな犯罪を起こした彼でした。救いからほど遠い状況の中にあって、今、自分自身も死につつある。そこでイエスさまを見ていて、自己の罪による悲惨な姿を知って、このお方に救いを求めるに至ることは、それ自体神の賜物であることを、この出来事は教えているのではないでしょうか。彼に対する主のお言葉は、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。イエスさまは「今日」と言われました。終わりの日でもなく、「今日」この日であるのです。思い出すと言った程度のことではなく、「わたしと一緒に楽園にいる」と言われたのです。  牧師 三ヶ嶋 徹