​2022年10月のメッセージ

2022.10.2「神のかえりみに生きる」ルカ16章25~33節

 イエス様は、『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」と言われます。それが僕の心だからです。イエス様の弟子である私たちもそのような僕の心をもつように招かれています。どうすれば、この僕の心を持てるのでしょうか。それは、「神のかえりみ」に信仰の基を置くということでしょう。「神のかえりみ」は、「神様が働いてくださった出来事」と言えるかと思います。先ほどの10節にそれが隠されています。どこにあるかと言うと「しなければならないこと」この言葉の中です。 「しなければならない」の元々の意味は、「負債がある」「借金している」「負い目がある」と言う意味です。ですから、直訳すると「行うべき借りがあること」となります。この僕は主人にどんな借りがあるのでしょうか。

 神様は、この世を愛されました。独り子を与えるほどに世を愛してくださいました。独り子を信じる者が一人も滅びることがないためです。そして、その独り子のイエス様は、こう言われました(マルコ10:45)「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。その、お言葉通り、イエス様は十字架の上で苦しまれて、尊い血を流してくださいました。私たちの罪をすべて背負って十字架で身代わりの死を遂げてくださいました。それは、わたしたちが罪を赦され、新しい永遠の命に生きる者となるためです。十字架の上で、わたしのすべての罪がイエス様の上に置かれました。その罪が罰せられて、わたしが死ぬと言うことが成就しました。そして、イエス様の義が私のものになりました。私の罪とイエス様の義を神様は、十字架の上で交換してくださったのです。これこそが、「神様のかえりみ」です。つまり「借り」とは、この返そうにも返せない、神様の大きな愛のことなのです。僕は、大きな愛をくださった方を自分の主人とすることができるのです。私たちも同じです。神様の大きな愛に支えらえて、神様が与えてくださった、それぞれの役割を担っていくことができるのです。                 補教師 瀬戸幸治

2022.10.9「救いは続く」ルカ17章11~19節

 ある村で、重い皮膚病を患っている十人がイエス様を出迎えました。そして、遠くの方に立ち止まったまま、大きな声を上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言いました。イエス様は「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われました。つまり、律法にしたがって、病気が癒されたのを祭司に見せて判定してもらいに行きなさい」と言われたのです。それは、「もう治った」と等しい発言です。彼らはイエス様の言葉通り、祭司に見てもらうために行きました。その途中で病気は癒されたのです。彼らは、まだ病気が癒されていないのに、イエス様の言葉を信じて歩み出したのです。これは、すばらしい信仰です。まだ現実においては起っていない、また実感されていない事柄を信じて、イエス様の言葉に信頼を置いて歩み出すことは、とても大事なことであり、私たちも見習いたい信仰者の姿です。

 しかし、話は続きます。その中の一人が「自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た」のです。他の九人は祭司に見せるために行ったようです。重い皮膚病を癒され、清くされたのは十人でした。しかし、イエス様から「あなたの信仰があなたを救った」というお言葉をいただいたのは、一人だけだったのです。この話から、大切なことに気づかされます。「癒し」と「救い」は違うということです。「癒された」のは十人でした。でも「救われた」のは一人だったのです。「救い」とは、イエス・キリストが私の主であるということです。罪と死と悪魔の支配にあった私を、神との愛の交わりの支配へと私を移してくださったという事実です。そして、「救い」は目に見える境遇が良い状態であるということと、イコールではありません。境遇が良いか、そうでないかにかかわらず、わたしたちは、今の世も、そして次の世も、ずっと続く救いの中にいます。神様との愛の関係の中に置かれ続けています。試練に会う時、病を得る時、癒される時、癒されない時も、イエス様の救いは途切れず、ずっと続いているのです。                   

     補教師 瀬戸幸治

2022.10.16「気を落とさず、絶えず祈り求めよ」創世記32章23~32節        

​                          ルカ18:1~8節

 『イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。』とあります。このイエスさまのたとえ話は、決してただお祈りしていれば良い、と言った趣旨ではないように思うのです。つまりその背景には、当時の権力者たちに悩まされた弟子たちの困難や、ユダヤ人たち、人々の無関心故の彼らの苦しみが滲み出ていると言えます。この「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」というのは、決して具体的な国家権力と言ったものだけではなく、私たちの周りには、もっと目に見えない権力や、私たちを単なる古くからの人間関係のしがらみと言ったようなもので、縛り付けるそういった力が存在するのも確かな事でしょう。教会の群れの中においても、何とも言えない、周りの雰囲気のようなもの、他者を無視するような空気、噂のような力で、一人の人を孤立させるような力、それもまた、神を畏れず人を人とも思わない愚かな人間の象徴でしょう。真の信仰者はいつも、そんな勢力に悩まされ、戦わなければといけないのです。さてこのやもめは、この不正な裁判官の所にやって来ては、正義の戦いを始めたのです。ひっきりなしにやって来ては、うるさいほどに訴え続けたのでしょう。彼女は弱かったと思います。しかし彼女は、自分の弱さを見ませんでした。イエスさまのたとえと言えど、ただ一人の正義の神がいらっしゃると言うこの事実。このお方がこの世界を支配しておられると言う信仰です。そこに彼女はまさにそこに立ったのではないでしょうか。  牧師 三ヶ嶋徹

2022.10.23「義とされる」ルカ18章9~14節

 「義」とはなんでしょうか。罪を赦されて神の目に正しい者と認められることです。平たく言えば、「救われる」と言うことです。では神様はどんな人を義とされるのでしょうか。イエス様のたとえ話で義とされたのは徴税人でした。ファリサイ派の祈りは、自分がいかに完全かを神の前で誇る祈りでした。一方の徴税人は自分が不完全であることを告白する祈りでした。つまり、二人の違いは、神を必要としているか、いないかの違いなのです。神はそこをみておられるのです。
 もし、神様を必要としないで神様の義を得ようとするなら、自分の行いで頑張って義を得るしかありません。しかし、行いで神のお眼鏡に適うことはできません。なぜなら、神様の目に適うことができたのはキリストだけだからです。イエス様は、わたしたちのために、週2日どころか、40日も連続で断食されました。イエス様は、十分の一どころか、十字架の上で、すべてをわたしたちのためにささげてくださいました。そのイエス様を差し置いて、神様の前に自分の何を誇ることができるでしょうか。 義とされた徴税人は、何もしていません。何も誇りません。ただ「罪人の自分を憐れんでください」と、胸をうちたたき、自分自身を悔やみ、願っただけなのです。つまり、彼は自分を贖ってくださる贖い主を求めたのです。
 イエス様の時代、神の民ユダヤ人でさえ、行いによって救われようとする社会でした。そして、宗教改革のルターの時代もお金で救いを得ようとする時代でした。現代の日本も根っこにあるものはイエス様の時代と変わりません。行いへと人々を駆り立てる、悪魔のささやきに支配されている社会です。しかし、行いの先に救いはありません。イエス様は、今日、はっきりと義とされる人はだれかを教えてくださいました。それは贖い主イエス・キリストを求める者でした。私たちは、この信仰に立ち続けたいと願います。    補教師 瀬戸幸治

2022.10.「主の食卓に集う」ルカ14章15~24節

 宣教70周年おめでとうございます。宣教70周年にあたり、教会の中心を皆さんと確認したいと思います。

 イエス様は大宴会のたとえ話をされました。宴会を開いたのは神で、僕はイエス・キリストです。そして、招かれていたのに断った人々とは、神の招きを真剣に受け止めようとしない、私たちのことです。しかし同時に神の国の食卓についた体の不自由な人々も私たちなのです。私たちが、神の救いにあずかり、神の国で食事をする者となれるとしたら、それはイエス様が一生懸命、招いてくださったからです。わたしたちは、神の国の食事にあずかるのに、相応しいところは何一つない罪人です。ただ神様に招かれて、救いにあずかって、神の国の食卓に着くのです。その招きはイエス・キリストが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって告げ知らされています。イエス・キリストを信じて洗礼を受ける者は、神の国の食事の席に連なることができるのです。そして、教会の聖壇の真ん中に置かれている台は、実は食卓なのです。イエス様の食卓が教会の中心なのです。15節で、「神の国で食事をする人は、なんと幸いな人でしょう」といった人がいました。食事は原語では「パン」という言葉が使われています。「神の国のパンを食べる人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったのです。聖餐にその神の国のパンがあるのです。イエス様がすべての人々に「もう用意が出来ましたから、おいでください」と呼び掛けておられるのです。この呼びかけを真剣に受け止め、主の食卓に集い続ける教会でありたいと願います。     補教師 瀬戸幸治